第一章 第三節 ルカ伝概説5

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⁋第五にこの特に社会的に現われた人間の罪なるものは、必ずしも律法を与えられているユダヤ人の間においてのみならず、世界万民の間に共通に現われているものである。マタイ伝が同じく罪を責め、悔改めを求めながら、それは主として律法に背ける罪であり、それは律法から見ての悔改であるのに対して、ルカ伝のそれは万民共通の罪であり、それからの悔改めである。この事は既にバプテスマのヨハネの群衆に対する言に関するこの両書の記し方の差異を見ればよくわかる(ルカ伝三章七—十四節、マタイ伝三章七ー十二節)
⁋第六に・叙上の意味において、キリストを受け容れることは、即ち神の国に入ることであり、 神の国を俟望する事は即ちキリストを受容れる事である。故に、本書は「悔改め」なき神の国俟望——悔改めなき理想国俟望――というものの自己欺瞞的性格を、あばき出す書である。即ちルカ伝のみがシメオンが幼児イエスに対して語った、

「視よ、この幼児は、イスラエルの多くの人のあるいは倒れ、あるいは起たん為に、また言い逆いを受くる徴(しるし) のために置かる――これは多くの人の心の念(おもい)の顕われん為なり」

という言を記している(二章三十四節)。これはイエスに由る悔改なくして神国を俟望する者の、欺瞞的性格の暴露を指示する言であり、或いはルカ伝のみが記すエマオ途上の復活のイエスの記事中の

「我等はイスラエルを贖うべき者は、この人なりと望みいたり」

という二人の弟子の言に対し、復活の主が

「ああ愚にして預言者たちの語りたる凡てのことを信ずるに心鈍き者よ」

といい給うた言においてもそれが示唆されている(二十四章二十一節・二十五節)。即ち彼ら二人は「イスラエルを贖う者」の待望者であり、且つ本書が強調する神国「俟望」の象徴として視られている者である。然し彼らの神国俟望はイエスから見れば、「悔改めなき俟望」であって、それ自身一つの精神的欺瞞を暴露するものに他ならない。それは悔改めの必要を知らざる心は鈍き心であり、預言者を通して語られた神の言をも理解出来ないという精神的制約をもつからである。
⁋第七に・然し本書はこの精神的制約を神的意図に遡るものとして観ている。即ち弟子らさえ神国キリストを真に理解出来なかったのは、 神が特定の時までこれを保留した為であると観る。本書はこれを説明して、

「弟子たち此等のことを一つだに悟らず、この言かれらに隠れたれば、そのいい給いしことを知らざりき」

といっている。(十八章三十四節)。また

「かれらこの言を悟らず、弁(わきま)えぬように隠されたるなり」

とも評されている(九章四十五節)。
⁋第八に・従って本書は、最後に「神の国」実現を阻(はば)み、且つ神国キリストの理解を妨る原因である「悔改めを知らざる我執」を除去する十字架を指し示し、その後編ともいうべき使徒行伝に記されている十字架の贖罪的意義の開示者たる「聖霊」を待望せしめる。というのはそこに詳述せられているように、 聖霊のみが人間の心にイエスの十字架の贖罪的意義を開示し、悔改めを知らざる心の鈍さから人間を解放するからである。 これこそ昇天するイエスが

「視よ、我は父の約し給えるものを汝らに贈る。汝ら上より能力を著(あらわ)せらるるまでは都に留まれ」

と命じ給うた所以である(二十四章四十九節) 本書は次の区分からなっている。

第一 神国キリストの俟望(一章ー三章)
第二 神国キリストの要請(四章ー十六章)
第三 神国キリストの否認(十七章―二十三章)
第四 神国キリストの指示(二十四章)

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第一章福音書>第三節 ルカ伝概説5終わり、次は第三節 ルカ伝概説6

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