第一章 第三節 ルカ伝概説4

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⁋第三に・ルカ伝は罪よりの救拯者イエスを、「主の喜ばしき年(ヨベル)の告知者」として描いている。即ちイエスは荒野の誘惑ののち、直ちに故郷ナザレの会堂で、安息日に旧約聖書の イザヤ書の第六十一章の「主の喜ばしき年を宣べ伝えしめ給うなり」という一部分を朗読し、

「この聖書は今日なんじらの耳に成就したり」

とこれを預言者的色彩において採用し、自己を宣言なし給うた(四章十六節ー二十一節)。 この「ヨベルの年」とは、レビ記第二十五章に規定され た「大釈放の行われる年」であり、社会的経済的不平均を完全に是正せんが為の規定であった。 従ってヨベルの告知者とは、取り分け貧しき者・悲しめる者・囚われたる者に対して、大いなる具体的祝福を意味した。本書の中に、特に社会的関心の色彩が濃く、貧しき者への関心、被圧迫階級への顧慮が極めて顕著であるのもその為である。それはルカ伝特有の「富める者と貧しきラザロ」の物語において(十六章十九節以下)、あるいは、マタイ伝の山上の垂訓の「幸福なるかな、心の貧しき者」とあるのを、本書が単に「貧しき者」と記している点等においてもみられる(六章二十節)。 これらの特徴は、本書の証しするイエスが「神国キリスト」である事から 当然結果するものである。
⁋第四に・ルカ伝は罪よりの救拯者イエスが、その力説を「悔改め」におき給うたとみる。勿論他の福音書においても神の国到来は、「悔改め」と共に述べられてはいるが(マタイ伝四章十七節、マルコ伝一章十五節)、然し本書においては特にその点が、社会的に力説されて居る。 それはルカ伝のみに特有の・イエスの語り給いし「放蕩息子の喩え」(十五章一節以下)、取税人ザアカイの話(十九章一節以下)、イエスの御足に香油を注いだ罪ある女の記事(七章三十六節以下)等において強調されている処である。前述せし如く、ルカ伝の証しするイエスは「神国キリスト」である故に、神国キリストが、神国入国の条件を社会的含蓄をもつ「悔改め」におき給うたという事になる。「悔改め」とは、本来「方向転換」を意味する。生来の人間に例外なく潜在するのは、自己中心であり、我欲であって、それは他者を犠牲にせずしては巳(や)まない「我執」として特に社会的に現われる。従ってこの「我執」の解決が為されない限り、未来永劫・理想的社会としての「神の国」は到来しない。然れば生来の人間が、神の国に入る為には、そこに自我の方向転換としての「悔改め」が、特に社会的に現われなければならないのである。此の意味に於て、神の国キリストは神国入国の条件として「悔改め」を迫るのである。

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第一章福音書>第三節 ルカ伝概説4終わり、次は第三節 ルカ伝概説5

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