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第四 権能者イエスの拒否 十四章十節—十六章二十節)2
⁋この最終の舞台に活躍する人物はペテロであり、彼は人の自力性を代表する人物である。 この部分はイエスの受難週の記事であるが、近づく十字架の死を、弟子たちに心準備させる為イエスは、
「なんぢら皆躓かん、それは・われ牧羊者を打たん、然らば羊、散るべしと録され たるなり。 然れど我よみがえりて後、なんぢらに先き立ちてガリラヤに行かん」
と語り給うた。このイエスの言に対して、ペテロは
「たといみな躓くとも我は然らじ」
と答え、
「ペテロ力をこめて云う。我汝とともに死ぬべき事ありとも汝を否まず。弟子たち皆かく云えり」
と記され(十四章二十七節以下)、特に本書においては、他の福音書にない「力をこめて」という言が附加せられている。ペテロは人間的自力の無邪気な表現者である。然しイエスは、その自力のもろさを見透して
「まことに汝に告ぐ、今日この夜、鶏ふたび鳴く前に、なんぢ三度我を否むべし」
といい給うた。この御言の通り、イエスの捕われた夜
「その時弟子みなイエスを捨てて逃げ去る」
という出来事が起ったことを記している(同五十節)「ある若者」 に至っては
「素肌に亜麻布を纏ういて、イエスに従いたりしに、人々これを捕へければ、亜麻布を棄てて裸にて逃げ去った」
という(同五十一・二節) この全体はこれまたマルコ伝特有のもので、本書が特にイエスの直弟子たちの醜態を描き出す為に記したもので、実にこの言こそ人間の自力のもろさを、繰り返えしていうが、如実に示したものである。主の許を逃れ去った弟子たちは復活の後までその姿をひそめている。三度びイエスを否んでしまったペテロが、三度目に鶏の鳴 き声と共に
「イエスのいい給いし御言を思い出し、思い反して泣きたり」
という所でペテロもその姿を消してしまう。主を十字架につけてしまうまで、自力の可能性にうぬぼれるのが人間の姿であり、ペテロはその人間的自力の象徴に過ぎない。
⁋然し、空虚な墓に、イエスの復活の音信(おとずれ)を告げる天使の言は、
「おどろくな、汝らは十字架につけられ給いしナザレのイエスを尋ぬれど、既に甦りて、此処に在さず。視よ、 納めし処は此処なり。然れど往きて、弟子たちとペテロとに告げよ、汝らに先き立ちてガリラヤに往き給う、彼処にて謁 (まみ)ゆるを得ん、會て汝らに云い給いしが如し」
という言であった(十六章六節以下)。
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