第一章 第二節 マルコ伝概説16

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第三 権能者イエスの期待 (八章二十七節ー十四章九節)4

⁋それというのは、この命令は、彼が独力でよく為し能わざる処であり、それ故彼の自力の限界を指摘し、彼をしてその結果として人間的自力の限界に立たしめる命令だからである。しかして、「かつ來りて我に従え」という最後の言は、自力の限界に立たせられた者にして、初めて理解し得られる言である。この限界に立たせられた者は、もはや自己としては何事も為し得ざる者であることを痛感させられ、この言を語った「他者」イエスに、自己を投げかけるより他ないことを知らせられるのである。

「この言によりて、 彼は憂を催し・悲しみつつ去った」

といわれ、それに対してイエスの

「富める者の神の国に入るは如何に難いかな」

という歎声(たんせい)がつづいて記されている。彼の富める青年の悲しみつつ去った姿は、人間的自力の極限を雄弁に物語っている。弟子らも、

「さらば誰か救わるる事を得ん」

という驚きの言に、人間的可能性の限界を告白している。以上の凡てを要約して、彼らの眼を人間的自力の彼方へと向けさせるのが イエスの

「人には能わねど、神には然らず、夫れ神は凡ての事をなし得るなり」

という言である。マルコ伝の語る権能者イエスとは、「人には能わねど、神は凡ての事をなし得るなり」と語ることによって、神の国を受け入れざらしめんとする一切の障害から人間を解放せんとする者の姿である。しかしてそこに人が見出すのは、人間的自力の極限までの応答を期待し給うイエスであり、人間的自力の自己充足を破ってのみ近づく神の国である。
⁋実に神の全能とは、人間的自力の限界点に顕われ来る神的可能であるといわねばならない。 その神の全能の地的顕現者なるイエスにおいては、それが人間の極限までの応答を期待し給う「眼(まな)ざし」に投映している。 他の共観福音に比してその短かさの故に簡潔を旨とするマルコ伝が、イエスの「眠ざし」に特別な注意を喚起している事を看過する事は出来ない。

「その心のかたくななるをうれえて、怒り見回して手なえたる人に手を伸べよ」

といい給うイエス、「その衣にだに触らば救われん」とイエスの衣にさわった者のある時、「この事を為しし者を見んとて見回し給う」イエス(五章三十二節)、富める青年の「師よ、われ幼き時より皆これを守れり」と答えた折、「彼に目をとめ、愛しみて」語を継ざ給うたイエス(十章二十一節)、「さらば誰か救はるる事を得ん」とその自力的限界を告白する弟子らに「目を注(とど)めて」語り給うた イエス(十書十六節以下)、あるいは宮の賽銭箱に向って坐し「群衆の之に投げ入るるを見給う」 イエス(十二章四十一節以下)はマルコ伝特有の描写であり、そこには本書の人間の自力的応答に対する「権能者の期待」が躍如としている。

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第一章福音書>第二節 マルコ伝概説16終わり、次は第二節 マルコ伝概説17

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