第一章 第二節 マルコ伝概説8

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第一 権能者イエスの福音 (一章ー節—五章四十三節)2

⁋神の国の権能が、その力を発揮するのを拒むものは、然しこの悪霊に止まらない。この活ける権能の福音を、既成の宗教概念の枠に押し込まんとする伝統的宗教から人間を解放することこそ、彼の急務なりとする覚悟が、次の業によって表示されている。既成の宗教伝統によってヨハネの弟子とパリサイ人とは断食していたが、それを規準として人々は、

「なにゆえヨハネの弟子とパリサイ人の弟子とは断食して、汝の弟子は断食せぬか?」

とイエスに詰問した。これに対するイエスの答は、

「新しき葡萄酒は、新しき革ぶくろに入るるなり」

という言であったと記されている(二章十八節以下)新しき葡萄酒とは、神の権能者イエスの齋(もたら)せし福音を、しかしてその発酵力を、極めてよく象徴している。古き何ものを以てしても、それには堪えられないのが、新しき神の子の権能の福音である。新しいが故に、それは如何なる枠にも、はめ込むことは許されない。これが神の子イエスの福音である。律法的宗教とは、絶対に枠づけ出来ないものを、強いて既成の枠に嵌め込まんとする「古き革ぶくろ」である。これこそ神の子イエスの権能に対する無前提的な反応を歪める力として、パリサイ主義を観、しかしてそれからの解放が警告されて居る所以である。
⁋また主は

「数多の喩(たと)えをもて、人々の聴きうる力に随いて、御言を語り」

給うたことが記されているが、「人々の聴きうる力に随いて」という句は、マルコ伝独特のものである(四章丗三節)。 このマルコ伝的表現も、権能者イエスが、神の国の告知に対する人間の自発的な応答を、如何に望み給うかを、強調せんが為のものである。人々の聴き得る力に従ってしか、その喩えの意味というものは把握されない。喩えとはそこにおいて聴き手の側の自発性と可能性とが、最も充全にしかして束縛なしに発揮される場所である。「人々の聴き得る力に随いて」を以て語り給うイエスの姿は、あくまでも人間の「下からの」可能性と応答性とに期待をかけ、これにその機会を与え給う姿である。
⁋然もこれ等の喩えが共通的に示す強調点は、この上の権能に対して、卒直な反応を示す処に、裕(ゆた)かな成長と祝福とが約束されるということである。その成長と祝福こそ、神の国の成長であり、祝福であることはいうまでもない。

「良き地に落ちし種あり、生え出でて茂り、実を結ぶ こと、三十倍、六十倍、百倍せり」

とか(四章一節以下)、

「なんぢら聴くことに心せよ、汝らが 量る量にて量られ、更に増し加えらるべし、それ有てる人は、なお与えられ、有たぬ人は、有てる物を取らるべし」(四章二十四節以下)

とか、

「神の国は、或人、たねを地に播くが如し………地はおのずから実を結ぶものにして、……実、熟せば直ちに鎌を人る、収穫時の到れるなり」(四章二十六節以下)

とか、

「一粒の芥子(からし)種………既に播きて生え出ずれば、一万の野菜よりは大きく、かつ大いなる枝を出して、空の鳥その陰に棲み得るほどになるなり」 (四章丗節以下)

とかいうような表現において、以上のことが裏書きされているのが見られる。

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第一章福音書>第二節 マルコ伝概説8終わり、次は第二節 マルコ伝概説9

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