第一章 第二節 マルコ伝概説5

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⁋この事は更に本書における特殊の信仰観の理解に対する基礎的認識となっている。即ち本書は「信仰」を、人格的主体としての人間が、神とキリストとになす「決断的応答」としていることがみられる。本書はこれを

「凡て祈りて願う事はすでに得たりと信ぜよ、然らば得べし」

という言を以て表現している(十一章二十四節)。換言すれば「信仰」とは、その信ずる対象が「既に与えられたるもの」として、これを「過去的」に信ずることであるとしている。この言は他の福音書においては「得べしと信ぜば」と将来的にいわれている(マタイ伝二十一章二十二節) この事は明かに本書の伝承と律法からの人間解放と、これを決断の主体となす権力との当然の要請であるといわなければならない。この過去的に信ずる信仰の反響ともいうべきものが、ラザロを甦えらせ給いし主イエスの

「父よ、我にきき給いしを謝す」

という祈に見る事が出来る(ヨハネ伝十一章四十一節)。
⁋この特異なる「信仰」を語っている本書の言は、改正英訳においては(一九〇一年版及一九四六 年版)、「得べしと信ぜば」と現在的にせられている。 いう迄もなくこれは、新約書の古写本中に現在動詞を用いているものがあり、英訳者はこの方を正本として用いた為である。この写本に不定過去動詞を用いたものと、現在動詞を用いたものとがあるという事は、それ自身この信仰を過去的把握とする信仰観の特典性を和らげんが為に、本文に変更が加えられたものではないかと思われる。勿論これは本文批評上の問題で、本書の概説の立場に直接には関係のないことだが、然しこの信仰観が如何に特異なものであるかを知る為には興味ある証拠である。マルコ伝はーー次に述べるようにーー信仰がないということはイエスの権能を制約する程のことであり、その信仰とは未だ得ざるのみならず、観もしていないことを、「得たり」と信ずることであるとし、この信仰こそこの地上において神の国来臨を迎える条件なりとみているのである。しかして本書はそれ程人間の自発的応答に対する強い要請を示しているのである。この事は殊に本書のみが記している、「人々の聴き得る力に随いて御言を語り」 という (四章三十三節)、イエスの宣教態度において示されている。 人間の自発的応答を求める者は、その人間の理解能力に応じて語るものでなければならない。理解が不可能な処には、自発的応答は決して望まれないからである。しかしてこの自発的応答要請から出る迫力は、本書全体にみなぎり、 本書の独特な雰囲気を作っていることがみられる。

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第一章福音書>第二節 マルコ伝概説5終わり、次は第二節 マルコ伝概説6

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