第一章 第二節 マルコ伝概説4

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⁋第三の点は・神の国来臨との関係における、人間に対する観方において現われている人間に対するこの観方は、本書に一貫している一つの問に対する答においてみられる。即ち権能者イエスが、人間を凡ゆる束縛から解放することによって、神の国をもたらしているにも拘らず、なお神の国の来臨を阻んでいる「もの」があるが、それは何であろうか? という疑問符を投げかけるのが、このマルコ伝である。本来神の権能は、人格的応答を俟たざる上からの圧迫としては来らない。神の権能はそのまま人間への語りかけである。それは人間の側からの応答、下からの自発的な応答に対する絶大なる期待である。これが本書に特殊なものともいうべき人格観と信仰観との現われている理由である。先ず人格観に就てみると、それはイエスの安息日に関する御言において現われている。他の福音書は「然れば人の子は安息日にも主たるなり」という言のみを記しているが、マルコ伝は特に

「安息日は人の為に設けられて、人は安息日のために設けられず」

という言を附け加えている(二章二十七節 ・ 参考マタイ伝十二章八節・ルカ伝六章五節)。これは完全に人間を律法の下から解放して、これを独立の人格とし、「決断の主体」として、福音による救拯の対象とせしめる言である。他の福音書における「人の子」とした表現においては、この語がメシヤの代名詞ならんと考えられた為――勿論ある者はこれをアラム語における「人」を意味する bar nasha に還元しているが――この意味は「メシヤは安息日の主である」 と解されるので、「人間解放」の意味とはならない。然るにこのマルコ伝においては、端的に且つ直接に一人はといっている為 (man-anthropos)、このあいまいな点がなく、 人間を伝承の中心であり、 律法の中心である「安息日」から解放し、これを主体的人格として、独立せしめるという意味が、極めて顕著に顕われている。この点は特にこのマルコ伝の特徴として理解されなければならない。

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第一章福音書>第二節 マルコ伝概説4終わり、次は第二節 マルコ伝概説5

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