第一章 第一節 マタイ伝概説19

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第四 メシヤの豫告する終末 二十四章ー二十五章

⁋弟子等がエルサレムの宮の壮麗なることを指摘した時、主は

「なんじら此の一切を見ぬか。 誠に汝らに告ぐ、此処に一つの石も崩されずして石の上に遺らじ」

という言を始として、来るべきユダヤの滅亡、偽キリストの出現、戦争の激化がキリスト再臨に先き立って起るべきことを予告し給うた。 しかして終末の特徴としてはダニエル書の指摘した、「荒らす悪むべき者」による聖所冒瀆が指示されている。しかしここで注目すべきは、世の終末は、福音が全世界に行き亘るまでは、来らないという事の強調である。

「御国の此の福音は、もろもろの国人に証をなさんため全世界に宣べ伝えられん、而して後、終は至るべし」

と約束されている(二十四章十四節)。 これもまた律法・預言者の成就者なるメシヤが語った

「天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一点一画も廃ることなく、悉く全うせらるべし」

という言の成就と見る事が出来る(五章十八節)。
⁋この世の終末の告知につづいて挙げられているのが、マタイ伝特有の「十人の処女の言」(二十五章一ー十三節)、「タラントの喩え」 (同十四—卅節),及び「人の子の審判」の光景の記事である(同卅一ー四十六節)。 第一の「十人の処女の喩え」は、再臨の緊迫感において、常に神の前に醒めて居るべきことの警告であり、「タラントの喩え」は、 再臨の時まで各々与えられた賜物を個性的に伸ばし、活用すべき責任の勧告であり、「人の子の審判」の叙述は、世に在る行為者が、対象を「主」とは知ることなしに、また「何時」為したかを意識することなしに為した行為のみが、再臨の主に依て評価されるということを示している。即ち再臨の主はその最後の審判に当って、その右に座を占める者に対しては、

「わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に為したるなり」

と祝福をのべ、左に座を占める者どもに対しては同じく此らの小さき者の一人に為さざりし事に対する審判を語り給うものとされている。山上の垂訓では

「汝ら見られん為に己が義を人の前にて行わぬように心せよ、然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ」

と警告されたが(六章一節)、イエスの審判にも「隠れたるに見給う父」の前に行為する事が求められている。換言すれば、

「汝の右の手のなすところを左の手に知らすな。是は施済の隠れん為なり。然らば隠れたるに見給う父は報い給わん」

という言の徹底である。

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第一章福音書>第一節 マタイ伝概説19終わり、次は第一節 マタイ伝概説20

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