第一章 第一節 マタイ伝概説12

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第三 メシヤの暴露する偽善 (八章ー二十三章) 1

⁋第五章から第七章にかけての教説に続いて、第八章と第九章にはメシヤによる「治癒」の部記事が纒(まと)められている。このメシヤの治癒に余念なき姿を本書は、イザヤ書の

「かれは自ら我らの疾患(わずらい)をうけ、我らの病を負う」

といわれた預言の成就と観ている(八章十七節)。しかしてこの部分には、病める者・収税人・罪人らのもろもろの「疾患(わずらい)」 を癒し給うメシヤ的性格の強調がなされているが、これを背景として、更に浮き彫りにされているのは、 このメシヤとパリサイ人との相克である。
⁋凡そ自己が空虚なることを知る器のみが、充す者を受け容れる。成就者イエスを受け容れる者とは、已が病める者・悲しめる者・欠けたる者・即ち自らの空虚なる事を知る病人・取税人・ 罪人等である。然るにパリサイ人とは律法の器のみをもち、その内容の空虚なるを自覚せず、その意味において充ち足りて在りとする者である。それ故に彼らは成就者の充す力を拒否する者である。彼らのその自己充足的の性格が、「偽善」なりとしてここに指摘されている。 先ず 第九章においてパリサイ人らは既に「なに故なんじらの師は、 取税人・罪人らと共に食するか」というイエスの弟子に対する問を以て登場する(十一節)。これに対してイエスは

「健かなる者は医者 (いしゃ)を要せず、ただ病める者これを要す。 なんじら往きて学べ、われ憐憫(あわれみ)を好みて、犠牲を好まずとは如何なる意(こころ)ぞ。 我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来れり」

と答え給うた。この言の重大なことは、イエスが後日、安息日 に麦畠を通り給い、弟子たちが飢えを覚えてその穂を摘み食べ始めたのを見て、パリサイ人が 詰問した時の主の答として再録されていることに依ても知られる(十二章一節以下) ,
⁋これはホセア、第六章六節からの引照で、イエスはここに儀礼的犠牲の形式を以て、真の犠性の本質なる「憐憫」に代えんとするパリサイ人の偽善を指摘し給うたのである。イエスはこの言において、宮より大いなる者」として自己を宣言しているが、 宮とは祭司的なるもの、祭祇礼奠(さいぎれいてん)の一切を含むものである。イエスは「宮より大いなる者」として、旧約の祭司の不完全性を自己において成就し給う者であり、彼こそは「安息日の主」でも在し、安息日が初めてその意義と本質を充されることの出来る成就者である。随つてイエスは安息日をして、彼自身に対して事えしむる者でこそあれ、断じて安息日に束縛されるべき者ではないというのである。

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第一章福音書>第一節 マタイ伝概説終12わり、次は第一節 マタイ伝概説終13

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