新約聖書各巻概説 序

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⁋「在るがまま」の新約聖書中の「在るがまま」の二十七冊の書物を、概説せんとするのが、本書の目的である。現代の聖書学においては、所謂歴史的批評的方法が用いられて、新約聖書中の諸書は、出来るだけ史料的に解体されるのが、普通のことである。然るに本書においては、全然この方法を用いないし、また史料的にも解体しないで、新約聖書中の個々の書物をその現形において概説しているのである。
⁋この事は聖書研究に、この歴史的批評的方法を用いるのが不可だという意味ではない。この方法は学的に正しい方法である。然し方法というものは、如何なる学問の領域においても、その用うる「場所」を間違えると、正しい方法も正しくないことになる。聖書研究におけるこの方法も同じことである。この歴史的批評的方法なるものは、その名の示す如く、歷史的探究の為に用いらるべき方法で、聖書のひいては新約聖書の「過去」を知る為に新約聖書とその中の個々の書物とが、「どうして出来たか?」という問題の探究の為に用いらるべきものである。最近我が国で広く読まれつつあるブルトマンの「新約聖書神学」を読んだ人には、この事は自明的なことであろう。
⁋この新約聖書の「過去」を探究するという事は、それ自身正しく且つ尊い学的の仕事である。然しいくらその「過去」を尋ね、それが「どうして出来たか?」を探ってみた処が、現在そこに一巻の書物となっている新約聖書という書物の「いま・ここ」で語っている事をそれに由て知る事はできない。ブルトマンが論じている、『イエスが「メシヤ」とか、「人の子」と か、または「主」という自覚をもっていたか、或はもっていなかったか』という事や、または 『パウロの神学「殊にその信仰」は、原始教会から伝えられたものだけではなく、その時代のギリシャ的世界におけるグノーシスや密儀宗教の教義を借りることに由て、出来上ったものである』という事を知ることが、新約聖書を教会の正典として、また「神の言」として学ぼうとする者に、しかして更にそこにおいて「信仰の決断」に至らせられようとする者に対して、果して何の益があるであろうか? これはブルトマン自身この書の中に、数回繰り返えして認めている事である。例えば彼は『此の問題を論ずるに当り、次の事を記憶しておく事が極めて肝要である――たといイエスがメシヤまたは人の子であると意識していたという事が確立されたとしても、それは単に一つの歷史的事実を確立するのみであって、信仰の箇条を証明するものではない。むしろイエスを――「メシヤ・人の子・主」というが如き肩書が彼に与えられるとしてもーー神の言が彼に於て人間に決定的に出会うところのその人として認めるということは、イエスが彼自身をメシヤなりと考えたか否かというような問題に対する答からは、全く独立した純粋なる信仰の行為である。此の問題を――それが答えられ得る限りに於て――答え得るのは、一に歴史家のみである。而して個人的決断としての信仰は歴史家の努力の上に依存し得るものではない』といっている (“In discussing this question it is important to bear in mind that if the fact should be established that Jesus was conscious of being the Messiah, or the son of Man, that would only establish a historical fact, not prove an article of faith. Rather, the acknowledgment of Jesus as the one in whom God’s word decisively encounters man whatever title be given him- “Messiah(Christ)”, “Son of Man”, “Lord”—is a pure act of faith independent of the answer to the historical question whether or not Jesus considered Himself the Messiah. Only the historian can answer this question–as far as it can be answered at all…..and faith, being personal decision, can not be dependent upon a historian’s labor.—Bultmann: Theology of The New Testament, translated by Kendrick Grobel, Vol.I, p.26.

⁋勿論かくいう事が――繰り返していうが――学問的に無益であり、不可であるという意味に採られてはならない。「かくの如き研究は、信仰の決断に対しては直接役に立たない」という。事を知る事は、聖書理解に対して大いに役に立つ。かかる研究はこの意味において理解されなければならない。
⁋勿論一つの書物の「過去」を知ることと、「現在」を知ることとは、不可分離的につながっている。然しそれは「分離」することはできないことであるが、然しそれは「区別」しなければ ならないことである。例えば日々の仕事に忙しく、十二時間以上も働いて、とても聖書の「どうして出来たか」を、学んでいることは勿論、きいている暇だにないという人が、世界には無数にある。然しこの人々もキリスト者であり、聖書を信ずる人である限り、今、彼の手に握られている新約聖書が、しかしてその中の一冊一冊が、彼に何を語ってくれるか、ということを閑却(かんきゃく)してよいということはないし、また閑却しようとも思わないであろう。 この人々の要求に答えるのが、しかして新約聖書の「現在の声」を聞かんとするのが、本書の目的である。この意味において本書は、一応歴史的批評的問題を、「括弧の中に入れて」、 新約聖書を概説せんとするのである。
⁋この歴史的批評的聖書研究方法が、意外にもその「聖書研究方法」としての目的を、果し得ないという事実が、認識され、そこに何らか新しい「方法」の必要なことが、徐々に認められてきたことは喜びに耐えない。例えば最近邦訳された、米国有数の神学校の一つなるエヴンストン神学校の旧約学教授バーブの「旧約聖書神学」の「序言」には、「本書は近代的な聖書研究の方法が、何ら期待したほどの宗教的成果をも挙げ得なかった事実を熟知している人々のために書かれたものである。なるほどそれら近代的方法も、聖書の資料・年代・著者及びその内容に関する若干の知識を有してはいるが、併しその大部分は単に断片的な知識のかけらにすぎず、人々が依ってもって生きて行かねばならない信仰とは何の関連もなく遊離しているものである。大学と神学校との双方における殆ど二十年にわたる教授生活は、聖書本文や文献資料の批評的分析を法外に重視することが、寧ろ混乱と無分別の弊を二つながら招来しがちである事実を明確にしてくれた」といわれている(バーブ著・三善訳「旧約聖書神学、四頁)。 この教授は二十数年間旧約学を近代的方法を以て教えた後この結論に到達したのである。若し彼が米国によくみられる保守的の神学校の教育を受けた人であったとしたら、この結論は最初からわかり切ったことだといわれ得るかも知れない。然し彼が業を完成したのは、米国中最進歩的 (ラディカル)の学校 といわれたシカゴ大学神学部であった。我々はここに近代聖書学によって教育せられ、それに立って二十数年間この学を講義した一人の学者の悲しい然し喜ばしい告白を、きくのである。
⁋然し本書の共著者は、この「在るがままの姿」の聖書を学ぶという事が、単に実際的意義「のみ」をもつものとは考えていない。それは更により高き意味において、信仰的であると共に学問的意義をもっている事を、主張し來ったものであり、また主張している者である。この主張は左に挙げられている諸書の中に学的に論述せられているから、興味を感じらっる人々は、それらにれらに就
てその理論を知られたい。

渡辺善太著「イスラエル文学史」附錄「旧約聖書の理解と解釈」·日本基督教团出版部·昭和二十七年。
渡辺善太著「聖書論第一卷」聖書正典論・新教出版社版・昭和二十四年。
渡辺善太著「モーセ五書緒論」・教文館版·昭和二十四年。
渡辺善太著「聖書論第二卷」聖書解积論・新教出版社版·昭和二十九年。

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