39 正典信奉(2)

ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

2022年03月30日

◉「聖書正典信奉の根拠」⑵

◉「聖書は正典である」は信仰告白

宗教改革者は、このことを信仰的に明らかに表現し、ことにカルヴィンは、きわめて明瞭に論じており、相対的な歴史的論証によらず、絶対的な信仰的論証としての「聖霊の内的証示」を強調し、それに従って後のプロテスタント教会において、非常に重要な位置をもっているのです。

カルヴィンはこの「聖霊の内的証示」が、聖書信仰に対して、絶対的不可欠であることを論じる前に、その「キリスト教綱要」で次のことをいっています。

◉「理性の耐えるかぎりにおいて、十分堅固に聖書に対する信仰を証明することができないわけではない」
といい(1篇8章)、その証明がいかなるものであるかを論述しています。

そしてその終わりに、
「しかしこれだけでは、天の父が聖書のうちに自己の神威をあらわにして、その尊厳をいっさいの争論の外に置きたもうまでは、聖書に対する堅き信仰をもたらすに、十分たり得ない。
されば、実に、聖書は、ただ聖霊の内的説得に、その確実性が基礎づけられた場合にのみ、神についての救拯的認識を発揚するに足るであろう。
それゆえに、実に、これを確証するための人間的証言は、もしも我々の弱さのための第二義的支柱として、主要にして至高なる証言に、追随するのみであれば、無益ではないであろう」
とのべています。

このことは、彼が今日いうところの 「歴史的証明」を、十分に認めていながらしかもそれが、 「聖書正典信奉の根拠」とはなり得ないことを熟知していたことを示しています。

そしてそのために、彼が聖書信奉の根拠として、 「聖霊の内的証示」の不可欠なことを論じているのです。

この意味で、この「聖霊の内的証示」こそ、プロテスタント聖書正典信奉の唯一の根拠なのです。

すべてのプロテスタントは聖書信仰に関するかぎり、何にもまさってこのことを明記しなければなりません。

【注】
理性的に聖書を読んだ結果を 「聖書の正しい読了観」として掲載してあります。
「聖書の正しい読了観」

「聖書正典」が教会に対して何ゆえに、「正典」であり、「権威」であり、「基準」であるかという問いに対する唯一の答えは、「正典」がそれ自身をそれ自身として教会に迫ったゆえであり、その迫ったという事実は神ご自身なしたまいしことである、ということであり、教会はこれを「聖霊の内的証示」によって、常に新しく聞かされ、信仰の決断において再確認されるのです。

したがって正典認容は、「信仰告白」です。

以上のことは具体的にはどんなことを意味するでしょうか。

「聖書正典」が、それ自身をそれ自身として「教会」に迫ったというとき、歴史的にまた具体的に「聖書正典結集」に当たったのが「教会」であるということが、そこに明らかに認識されています。

この意味で 「教会の権威なくして聖書は認証的ならず」とヨハン・エックがいったことは正しいのです。

しかしそれにもかかわらず、この言葉はきわめて誤られやすいのです。

この言葉が真に意味する純粋の歴史的意義が誤られないように、すなわち「聖書を信奉するのは教会の指令による」とするカトリック的正典観に陥らないように、◉プロテスタント教会は常にこれを警戒し、これをその信条において明瞭に表現しました。

【注】 「一般史」と「救拯史」(創世記45章「ヨセフの物語」梗概)
兄弟のしっとから少年時代にエジプトに売られたヨセフが、数十年後にエジプトの宰相としてその兄弟に面接した時の言葉を、創世記は次のようにしるしています(創世記45:4以下)。
「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。
あなたがたがエジプトに売った者です。
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。
神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。
この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
それゆえわたしをここにつかわしたのは、あなたがたではなく、神です」。

ヨセフはその言葉の中で、 二種の歴史解釈を述べています。

◉第一は、信仰者にも、無信仰者にも明らかな、「歴史解釈」です。

すなわちヨセフがエジプトに来ているのは、その兄弟がしっとからどれい商人にヨセフを売り渡した結果である、という普通の歴史解釈に相当するものです。

ヨセフはこの「普通史」を述べますが次には神信仰から見た、この同じ出来事の異なった解釈を、
◉第二に「それゆえわたしをここにつかわしたのは、あなたがたではなく、神です」と述べています。

この第二の解釈が、ここにいう「救拯史」に相当するものです。

それではこの二種の歴史解釈はいったいどんな関係にあるのでしょうか。

◉第一は、ヨセフの兄弟が彼をエジプトへ売ったという叙述で明らかなように、「人間を主体とした」歴史解釈です。

◉第二は、「神を主体とした」歴史解釈です。

つまりこれは、過去に対する、「神信仰」からの再解釈です。

これが前述の「救拯史観に立脚した歴史解釈」に相当するものです。

ところで、この異なった二つの解釈の関係も、
◉「それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」
というヨセフの言葉に表現されています。

神信仰は、つねに◉「人を主体とした見方」から、◉「神を主体とした見方」へ転換させずにはやみません。

神信仰は、単にその特定の個人を救うだけでなく、その個人に関わる全連関をも、その現在の信仰から再解釈させずにはおかないからです。

このような、信仰による「過去・現在・未来」の再解釈から結果する歴史解釈を、「救拯史的解釈」と言います。

その意味から、◉旧約聖書は、選び主なる神に対する信仰から見直された選民史であり、◉新約聖書は、教会の首かしらなるキリストへの信仰から見直された教会の歴史です。

しかも旧約聖書の選民史は、
「わたし(キリスト)は律法また預言者(旧約)を廃するために来たのではない、かえってこれを成就するためである」
という、イエスの言葉に向かって方向づけられた救拯史です。

「救拯史」の方向がイエスに向かう、ということは、「救拯史」の焦点はキリストであるということです。

そして厳密には、復活した「十字架のキリスト」こそ、「救拯史」の焦点です。

それは要約すれば、
◉第一に、キリストは世のはじめの先から神と共にあり、世のはじめの先から屠(ほふ)られたもうた御方であること(ヨハネ1:1-18、黙示録13:8)。

◉第二に、「神の国」の到来という、神の宇宙救拯の暁、「神の国」に入国を許される者とは、「屠られたもうた小羊のしるし」を額におびる者に限られていること(黙示録14:1、17:14)ということです。

上述の点からしても、「十字架のキリスト」こそ、聖書を貫く「救拯史」の焦点であることが明らかになります。

要するに聖書は 「普通史」の概念をもっては解釈できない主客転倒の史観に立つので、解釈者は、普通史と異なった歴史解釈をなさせた 「もの」を究明することをその目標としてかからなければならないのです。
(続く)

ーーーー

信仰雑話>39 正典信奉(2)、次は39 正典信奉(3)
ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう