39 正典信奉(1)

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◉「聖書正典信奉の根拠」⑴

カルヴィンの「定かな公理」としての聖書正典信奉は、キリスト教会の基本的立場で、これがなければ、教会は教会ではなくなります。

しかし、この立場はプロテスタント神学史を通して、正しく保持されたとはいえません。

聖書正典に対する全面的否定も、部分的否定も、一言でいえば、「聖書の歴史的理解」に立った結果だったのです。

◉ 聖書正典の否定論

歴史的聖書理解を根拠として主張されてきた正典否定の理論は、多種多様ですが、次の諸点に類別できます。

① 聖書正典中のある書物は、その倫理的、宗教的価値が非常に低いもので、とうていこれを「正典」として、教会の権威とするには足らないというものです。

これは一般的、倫理的判断から見れば、きわめて正しく、聖書正典中のある書は、必ずしも倫理的に価値が高い書物ではありません。

たとえば、「雅歌」あるいは「エステル書」などは、倫理的価値を認めることはできません。

また「律法」として尊まれたレビ記などは歴史的価値は認められても、これに倫理的価値を見ることは困難です。

この意味で、この論者の反対は正しいのです。

しかし聖書正典が、このような観点から決定されたものでないことが理解されると、論者の言葉がまったく見当違いであることがわかります。

端的には、

「あなたがたは、聖書の中に永遠の生命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(キリスト)についてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)

というイエスの言葉によるのです。

② 聖書正典にはイエスの教説や使徒たちの書簡が、全部もれなく含まれているわけでないから、聖書正典としては十全でない、というものです。

この議論は論者が意味するかぎりにおいては正しい議論です。

しかし、聖書正典とはイエスの教説と使徒の全書簡とをもれなく網羅することを目的とするものではない、ということを知れば、この否定理由が見当違いであることがよくわかります。

新約聖書の中にさえイエスのみ言葉で、まったくイエスの教説と生涯をしるすことを目的とした福音書中に収録されていない言葉があり、しかもその言葉は使徒たちの間によく記憶されたものであったことを考えれば、上記の目的がよくわかります。

【参考】(使徒20:35)

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』
と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。」(使徒20:35)

聖書が正典として収録された目的とは福音書については、

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:30-31)

といわれており、けっしてその目的がイエスの教説の全部を収録することにあるのではなく、読者に「生命を得てもらう」点にあるということが明らかにされています。

また使徒の書簡でも同様に、パウロはコリント教会にあてて、
「前の手紙で」とⅠコリントとは別に書き送った書簡のあったことを示しています。

【参考】
「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。
もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。」(Ⅰコリント5:9-10 )

また、
「この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。」(コロサイ4:16)
と、コロサイ書と交換して読む必要のある書簡のあったことを示していますが、新約聖書正典の結集者は、それらの書簡が存在しないことで、その結集に当たって使徒書簡の結集を不十分として中止しなかったのです。

したがって聖書正典を、この否定論者のいうような意味に理解することそれ自体が誤りであることがよくわかります。

③ 聖書正典は全教会会議で一致して決定したものでないから、これを教会全体に対する絶対的権威とするのは、正しくないという議論です。

これは一部正しく、一部誤っています。

個々の書物の聖書正典への決定は、けっして一度に決定されたものではなく、徐々に個々の教会で尊奉されつつまとまるようになったもので、それが教会会議で採りあげられ、数次の教会会議を経て、ついに決定を見るに至ったものです。

したがってほぼ集められるまでの過程は、教会会議によったものではありませんでしたが、最終的に決定を見たのは、たとえ数次の会議を経たものとはいえ、全教会会議で定まったということができます。

この意味で、この否定論は一部は正しく、一部は誤っているのです。

④ 聖書正典はその決定に当たり、一応は決定されたようなものですが、その内容としての書物の範囲については各種の異見がある、という反論です。

たとえば新約聖書の「被疑書」に関する反対などはそのよい実例ですが、一つの書物が聖書正典中に入れられているということによって、これを教会の絶対的権威とするということは正しくないという反対理由です。

この反対理由は、大事な一点で、問題を誤解しています。

正典決定という「理念」に関する問題と、決定された正典の「範囲」に関する問題とを混同している点です。

これがツァーンとハルナックとの結論の差異の起こる点ですが、同時に今日までの正典反対論者の根拠は、多くこの誤りの上に置かれています。

この二つの問題は次元を異にする問題で、区別して論じるべきものです。

【注】(ハルナックの論)
新約聖書が明瞭な意図をもって結集されたものであることは、自由主義神学の大家である故ハルナック教授も指摘しています。

彼によると、使徒行伝がルカの著作であるにもかかわらず、ルカ伝とは引き離して、しかも著者名をつけず新約聖書の中央におかれていることは、新約聖書全体理解の鍵としてこの書が位置づけられていることを示すものであるというのです。

【注】(自由主義神学)
広義の自由主義神学の聖書正典観は、聖書正典の自動的結集観に立ち、その文献性によって正典性を理解する点において、その特徴と誤りがあります。

聖書正典の自動的結集観に立つとは、聖書正典を人間の集団としての、キリスト教会によって結集されたまったく一つの人為的歴史的に生み出されたものと見、その背後になんら神的なるものの直接指導のあったことを認めないことをいうもので、聖書の文献性によって、その正典性を理解するということになるのは、その当然の結果です。

この正典観においては、聖書の正典性と文献性との両極性はまったく失われ、正統主義神学の聖書正典観とちょうど正反対の立場が採られ、また正反対の誤りが犯されているのです。

この正典観は、ただこれ一つのみで立っているものではありません。

その基底に「聖書の神言人言」の緊張関係を解体し、これを一方的に「人言であると断定する」聖書本質観があります。

ちょうどそれは正統主義神学が、その聖書正典観の基底に、「聖書の神言人言」の緊張関係を解体し、これを一方的に「神言であると断定する」聖書本質観をもつのと対照的関係に立っています。

しかし両者の基底が、「聖書の神言人言の緊張関係」を解体した点においては、まったく同一の誤りに陥っているのです。

この聖書正典観を生み出したものは、啓蒙主義以来発達してきた、合理主義神学と歴史的批評的聖書研究とです。

この両者の結合したものが、古くは第十八世紀のドイツにおけるゼムレルの合理主義的正典観となり、近代神学の祖シュライエルマッハーのそれを経て、ヘーゲル哲学に立つ、テュウビンゲン学派の新約学、グラーフ・ヴェルハウゼン学派の旧約学および宗教史学派の全聖書学となり、ついに聖書の神言性と正典性との全的否定となったのです。

この神学における聖書の神言性と正典性との全的否定は、一度に起こったものではなく、正典性否定が神言性否定に先行したのです。

これは一見不思議なようですが、それはキリスト教伝統が根深く植えつけられ、その教育が広く普及している欧州であったために、公的に聖書の正典であることを否定しても、私的にまた個人的には、聖書が神言であることが、感情的にあるいは体験的に味わわれていたので、これを一掃的に否定できなかったためでしょう。

ちょうどそれは自由主義神学者が、本質的には聖書に神的なものを肯定しながら、形式的にはその正典性を否定しているのと同様です。

ここでは聖書の神言性人言性、正典性文献性の両極的把握とか、緊張的理解を語るとかはまったく無意味になってしまいました。

こうして宗教改革者の正典信仰は失われ、ドブシュッツの「聖書の正典性は永遠に棄却すべきである」という主張が、躊躇なく、公表されるようになったのです。

⑤ 正典決定ということは、単なる歴史上のできごとに過ぎず、一時代一地方の制約のもとに決定されたものだから、その時代がこれを権威としたことは正しいが、これを永久に権威にしようとすることは、誤っているという点です。

この議論は、信仰的立場に立って答えないかぎり、答えることのできない強力な反対理由です。

およそどんな「こと」にしても、歴史上のできごとであるかぎり、それが絶対的権威をもって永久に後世にのぞむというようなことは、考えることさえできないことです。

この立場からいえば、聖書正典は、その結集時代の権威として歴史的価値を認め、現在に対してはこれを古典として、参考史料として取り扱うということにならざるを得ないのです。

歴史的立場に立つという前提を肯定するかぎり、これほど正しい結論はありません。

しかし、ここに一つ、考えなければならない点があります。

それはイエスという歴史的な一人格、その十字架という歴史的なできごとを、永遠に絶対的権威として信奉するというキリスト教は、この論者の立場からは成立しないではないか、という一点です。

もちろんイエスとその十字架との絶対的権威を否定するという近代自由主義神学の最左翼の立場に立つ人々には、この一点はけっして「考られる」一点ではありません。

しかし福音主義的立場に立つかぎり、キリスト教という信仰は、良くも悪しくもこの一つの「歴史的できごと」に永遠的にして絶対的な権威を認めたところに存在するのですから、少なくともその意味では、単なる一つの歴史的できごとに過ぎないこの「正典結集」に永遠的意味を見、かつ永遠的権威を見るということに理論的矛盾はないのです。

こう考えてくるとこの否定論も成り立たたなくなります。

以上、諸否定論は、すべて近代の歴史的聖書理解に立脚して、聖書正典に向けられたものです。

これらの諸否定論を見るとき、歴史的立場に立つかぎり、正典確立論を論証することは不可能です。

このことは宗教改革時代から多少神学者の間にも感じられていたことです。(続く)

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