38-15「どうしたら正しく理解することができるか?」86

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

聖書の正しい読了観(15)

◉各書総関の目的的解釈

新約聖書の目的的解釈の第二は、個々の書物相互の関係で、その「関係」を通して証言されているキリストを発見するように進めます。

個々の書物相互の関係を通して証言されているキリストを見いだすとは、これらの個々の書物の「証言的個性」における相互関係を通して、「キリスト証言」をみることです。

具体的にいうと、個々の書物相互の「差異」と「対立」、「矛盾」の発見による「証言的個性」の認識となります。

具体的な過程は、新約聖書第一区分中の
◉共観福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)の相互関係で最もよくみられます。

共観福音書は、三つまたは二つの共通の「史料」をもち、その構成に共通なものをもっているために、「共観」と名づけられたものです。

◉これまでの研究では、マタイ、マルコ、ルカの三福音書の背後にある「史料」発見にその努力が向けられ、ことに様式史的方法では、その「史料」以前の「原」史料発見に最大の関心が向けられてきました。

しかし、この努力はちょうど逆に向けられるべきでした。
平たく言えば、「家」は、木と釘とコンクリートなどで出来ていて、その木はどこの山でいつ伐採されたか、という見方とは逆に、そのファサードであり、間取りであり、居住環境はどうか、という方向の見方と同様の努力です。

「共観」と呼ばれる三福音書は、相互どのように相異しているのか。

この問いに答えるためには、次の三つの方法的操作が必要です。

◉第一の操作は、これら三福音書の共通素材を、そこからまったく除去することです。

そこに残されるきわめて少しばかりのものーーこの少しぱかりといわれるものの中には一つの前置詞、一つの副詞、または形容詞というようなものもあるでしょう。

これによって、まず三書相互の差異が見いだされます。

第二の操作として、差異が見いだされた後、前に除去した共通の素材を、それぞれ元の位置に戻します。

この「差異」によって、その共通素材がそれぞれの書での「用い方」の差異が見いだされます。

第三の操作として、こうして発見された二重の差異によって、三書相互の全体的「差異」が求められます。                  

共観福音書相互の間に見いだされた全体的「差異」によって、その各々の証言的「個性」をみるとき、それは単なる差異ではなく、「対立」とさえ見られます。

◉マタイ伝は、イエスを「イスラエルの王」であり、その「メシヤ(キリスト)」であるとして証言しています。

◉マルコ伝は、端的にイエスを「奇跡者」として証言しています。

◉ルカ伝は、「世界万民の救い主」として書いています。

この証言的個性は、当然そのいっさいの素材の用い方と、配列のしかたと、ひいてはイエスに対する理解のしかたとの差異で顕著になっています。

この関係を単なる「見方の相違」としてかたづけることは、聖書の諸書の証言的個性を認識しないことであり、これを軽視することであり、ひいてはこれを否定することになるのです。

この操作はさらに進んで、共観福音書と第四福音書(ヨハネ伝)との間に行なわれます。

この場合には、この「差異」ひいては「対立」がより鋭く顕著になっています。

◉第一に、共通素材を除去した後の特殊素材が、非常に多くなっています。

これによって解釈者は何よりも先に両者の差異をみさせられ、ことに第四福音書の個性に気づかされます。

◉第二に、ひとたび除去された共通素材が還元され、第一の操作によって発見された「差異」によって、この共通素材の置かれている位置と用い方の差異が認識されます。

共観福音書での「最後の晩餐」の記事が、第四福音書では「天より降れるパン」の神学的解説となって、弟子たちのイエス棄却の前に置かれていることなどは(ヨハネ6章)、その顕著な「差異」です。

◉第三に、これらの過程を経て、両者の「差異」が初めて全体的に明らかになります。

◉共観福音書では、「ナザレのイエスは神の子なり」と証言しますが、第四福音書は「神の子はナザレのイエスなり」と証言しています。

◉共観福音書は、ユダの裏切りをイエスが徐々に知るにいたったものと語りますが、第四福音書はイエスがこれを「初めから」知っていたと証言しています(ヨハネ6:64、6:70、13:18など)。

【参考】
「『しかし、あなたがたの中には信じない者がいる。』
イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。」(ヨハネ6:64)

この三重の操作過程を経て、共観福音書と第四福音書との関係を見、そこにこのほとんど全面的ともいうべき証言的差異をみるとき、この「差異」は単なる「差異」でなく、それは「対立」であり、さらにそれは「矛盾」であるとさえ見られます。

このように共観福音書相互の間と共観福音書と第四福音書との間に見いだされた全体的「差異」は、当然それぞれの個性を顕著にし、それによってそれぞれの書の「証言的個性」を鋭く示すことになります。

その結果は当然証言としての「対立」ともなるでしょうし、また「矛盾」ともなるでしょう。

次に書簡相互間に、その関係を通して、この解釈が進められ、それぞれの「証言的個性」が求められます。

◉この場合、最もこの関係を顕著する実例は、ヤコブ書対ロマ書およびガラテヤ書の関係です。

ヤコブ書は義認における「行為」を高調し(ヤコブ2章)、ロマ書、ガラテヤ書は義認における「信仰」を力説しています(ロマ書3:2ー14:14、ガラテヤ書3:5以下)。

【参考】(ヤコブ2章対ロマ書、ガラテヤ書)
◉「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 こうして、『アブラハムは神を信じた。
それによって、彼は義と認められた』
という聖書の言葉が成就し、そして、彼は『神の友』と唱えられたのである。
これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」(ヤコブ2:21-24)

◉「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。
しかし、神のみまえでは、できない。
なぜなら、聖書はなんと言っているか、
『アブラハムは神を信じた。
それによって、彼は義と認められた』とある。」(ロマ書 4:1-3)

◉「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
このように、アブラハムは
『神を信じた。
それによって、彼は義と認められた』のである。
だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。」(ガラテヤ3:5-7)

この両者は歴史的にみても、おのおの当時のユダヤ教神学における「行為派」と「信仰派」との主張に、それぞれその根拠をおいているのであって、けっして一方が他方を補足するために主張されたものではありません。

したがって正典的神学的にこれをみるときは、これを「矛盾」関係にありとみるのは当然のことです。

両書の個性は、この矛盾によって明らかにされたところに従い、それぞれの微細な部分に至るまで、このように理解されなければなりません。

◉さらにこの書簡相互間の対立関係の差異的の例は、Ⅰヨハネとロマ書との間にもみられる。

Ⅰヨハネをみると、神による新生者は、絶対的に罪を犯さないということが主張されています(Ⅰヨハネ3:9、3:6)。

一方ロマ書をみると(ロマ書7:25)、義認された者といえども、少なくとも肉においては罪の律法に仕えざるを得ないとされています。

この両者はけっしていわゆる調和的関係に見らるべきものではありません。

こうした差異は、共観福音書がイエスの「み言葉」としてしるしている言葉と言葉との間にも見いだされます(マタイ12:30、ルカ11:23対マルコ9:40、ルカ9:50)。

【参考】(マタイ12:30、ルカ11:23対マルコ9:40、ルカ9:50)

◉「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」(マタイ12:30)

◉「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。(ルカ11:23)

◉「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。」(マルコ9:40)

◉「イエスは彼に言われた、
『やめさせないがよい。
あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである。』」(ルカ9:50)

ことに注意されるのはこの対立的表現が、同一著者の二つの書簡相互の間にもみられるということです。

たとえばⅠコリント(1:14、17)と、ロマ書(6:3ー4)との間のバプテスマに関する差異、ガラテヤ書(5:16以下)と、Ⅰコリント(4:4)との間における罪に関する断定などにおいてもみられます。

【参考】

◼️「バプテスマの差異」

◉「わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。」
「いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。
それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」(Ⅰコリント1:14, 17)

◉「それとも、あなたがたは知らないのか。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ロマ書6:3-4)

◼️「罪に関して」

◉「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。
そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」(ガラテヤ5:16)

◉「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。」(Ⅰコリント4:4)

上記のように、この同一著者の二書簡における表現までを、証言的対立と解釈することはもちろん許されません。

しかしこのような事実が存在しているということは、新約聖書の著者たち、ことにパウロが、場所を異にし、時を異にするに従って、その時々に語ったその証言を、絶対的なりとしたことを語っているのです。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:8)

というガラテヤ書の言葉には、彼の時々刻々の証言が随所絶体・随時絶命として宜べられたものであることが示されています。          

これらの聖書中個々の書物における対立的表現は、証言と証言との間における、その個性的対立を示しています。

もしこれらの言葉をその一つ一つの語句に、そこに求められている意義を即物的に付して解釈されるとき、従来行なわれたような、調和的解釈などが出来る余地は絶対にありません。

新約聖書中の個々の書物相互の「関係」で、それぞれの証言的個性を求めてきました。

この新約聖書諸書の証言的対立と矛盾とによる関係は読み手に、これをそのままに放置させないでしょう。

読み手は当然この対立と矛盾とによって、推し進められ、押し上げられて、これらの書物をもって構成されている新約聖書自身の書物配列における形態的構造そのものが示している「キリスト証言」の検討にまで至らせるでしょう。 

まったく素人で間違ったたとえになるのかも知れませんが、聖書の「キリスト証言」は、中空に映像を結ばせる「ホログラム」に似ているのかも知れません。

「ホログラム」は、赤レーザー、青レーザー、緑レーザーで映像を中空に結ばせます。

赤は赤を主張し、青は青を主張し、緑は緑を主張することではじめて映像を作り出せます。

聖書の「キリスト証言」も同じです。

「足して二で割る」ようなものではないのです。

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