38-13「どうしたら正しく理解することができるか?」84

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

聖書の正しい読了観(13)

◉「旧約聖書の証言性の困難」

前記でいまも教会を席捲している聖書の「歴史的批評」の誤りを明白にしました。

「現在の形における聖書」中の個々の書物の「部分」の証言性と、「歴史的批評」が想定したそれらの書の「史料」(J・E・D・P史料など)の証言性とは、絶対に異なったものだということです。

前者は「特殊証言」であり、後者は「一般証言」なのです。

この意味で、聖書を「キリスト証言」として目的的に読むことは、どこまでも「現在の形」における聖書、「一巻の書物」としてそこにある聖書を、「キリスト証言」として解釈することを意味します。

読み手は、このことを明瞭に認識しておく必要があります。

平たく言えば、「古池や蛙飛びこむ水の音」の「古池」という言葉も、「蛙」という言葉も、句全体を言い表さないのと同じように、聖書の「史料」(J・E・D・P史料など)は、「古池」であり、「蛙」でしかないのです。

本題に戻ります。

この目的解釈の過程で、読み手が、その解釈対象である一文章、一段落、一書、旧約聖書、新約聖書と順次それによって「彼のうちに証しされてきたキリスト」は、彼の目的的解釈において、どのように現われるでしょうか。

読み手の解釈はどうしたら、この意味での証言的に聖書を解釈することになるのでしょうか。

これこそ聖書を読むという語の最も正しい意味での最大の問いというべき問いです。

この問いは新約聖書の場合には、一見困難でない問いのように感じられますが、旧約聖書の場合には、誰が考えてもその困難なことがうなづけます。

旧約聖書にはイエスをキリストと信ずる意味における「キリスト」という語は一度も用いられていませんし、またイザヤ書の「苦難の僕」の預言以外(イザヤ52:13-53:12)を中心とする、新約聖書的に見ても「イエス」にも「キリスト」にも言及したらしい言葉が一切ないからです。

したがってその旧約聖書を、「キリスト証言」として解釈するという時、それが極度の困難を伴うことは説明を要しません。

このために従来、動機としてはうるわしく、その結果としてはバカらしい解釈が、教会で行なわれてきたのです。

いや、いまもそうでしょう。

それは旧約聖書の「個々のページ」または「個々の書物」に、具体的にこの「キリスト」を読み込むという解釈であり、その方法として用いられたのが「寓意的解釈」すなわちルターの言った「猿芝居」です。

新約聖書の著者たちが、旧約聖書中のある部分を、この意味で解釈している解釈に従うことーーたとえばヘブル書のモーセ五書中の祭祗的部分の解釈のようにーーが悪いというのではありません。

ただそれを旧約聖書全体に辞義的に及ぼすことが悪いのです。

ここでもう一度想起されなければならないのは、使徒行伝第七章のステパノの旧約聖書解釈と、ヘブル書第十一章のそれとです。

この両書で顕著なことは、それが旧約聖書の新約的または証言的解釈でありながら、ヘブル書では「キリスト」という語が一回だけしか用いられていないのに、両者とも新約聖書における代表的な旧約解釈であるということです。

◉この両解釈が旧約聖書解釈として示していることは、旧約聖書が読み手に証言するキリストによって、その証言している旧約聖書を逆に解釈していることです。

◉この「旧約聖書が解釈者に証言するキリスト」とは、「新約的信仰において」旧約聖書を読む読み手が、必然的にその旧約聖書によって彼のうちに指示される「キリスト」です。

◉「キリスト証言」としての旧約聖書が、読み手に対して、そのさし示すものとして指示するキリストによって、その旧約聖書自体を解釈するという意味であって、けっしてその解釈の語句と表現との上に、「キリスト」が「直接的」に表わされ、また「辞義的」に語られるということではないのです。

◉したがって真の証言的旧約聖書解釈とは、旧約聖書を解釈するということで「指示されるもの」が、読み手の「うち」に、解釈の生ける「鍵」として与えられるいうことです。

証言的解釈の対象としては、新約聖書が容易で、旧約聖書が困難だと言いました。

この意味はキリスト者であれば誰でも容易に理解されますが、しかしそれだけにそれは非常に誤解される恐れがあります。

新約聖書は全体として「キリスト」をあかししています。

新約聖書のほとんどすべてのページに、「イエス」や「キリスト」という語がしるされています。

したがって新約聖書を解釈する場合、どんな解釈によっても、それが証言的解釈となりうると考えられる誤解です。

というのはたとえ「キリスト」と書いてある一書をそれとして解釈したからといって、それがただちに証言的解釈とはならないのです。

たとえば「キリスト」を述べているマルコ伝を、辞義的文法的に解釈することがただちに証言的解釈となるものではないのです。

それはギリシャ語を知り、宗教史的方法に熟している者ならば、誰でも出来ることで、「正典信仰」をもたなくても、また「イエスをキリストなり」と信ずる生ける信仰をもたなくても出来ることです。

◉故に、新約聖書の場合でも、それが真に証言的解釈となるためには、新約聖書全体が読み手のうちに「指示するキリスト」によって、逆にその新約聖書を解釈するという解釈でなければならないのです。

もちろん外形的または具体的には、このキリストをもたない者のそれと、キリストをもつ者のそれとが、ほとんど同様であるかも知れません。

しかしそれは単なる偶然的一致で、問題はそんなところにはないのです。

目標的解釈に当たって文献的困難である記事の「差異、重複、転倒、矛盾」と解釈的論理としての部分的解釈の不十分性とが、一文章から全巻に向かう解釈を進めるための刺激となり、動力となります。

この目的的解釈でも、同様のモノが刺激と動力となります。

それは、個々の部分と個々の書物との強烈な証言であり、相互排除的自己主張です。

旧約聖書でその一、二の例をみると、

◉「預言書」をみると、

「先見者(預言者のこと)たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。
彼らはみな、口ひげをおおう。
神の答えがないからだ。
しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。」(ミカ書3:7-8)

といわれています。

◉「祭司的歴史書」をみると、

「わが神よ、彼らのことを覚えてください。
彼らは祭司の職を汚し、また祭司およびレビびとの契約を汚しました。
このように、わたしは彼らを清めて、異邦のものをことごとく捨てさせ、祭司およびレビびとの務を定めて、おのおのそのわざにつかせた。
また定められた時に、たきぎの供え物をささげさせ、また初物をささげさせた。
わが神よ、わたしを覚え、わたしをお恵みください。」(ネヘミヤ記13:29-31)

といわれています。

◉「知者的書物」をみると、

「だれか私に聞いてくれる者はないものか。
見よ。
私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。
私を訴える者が書いた告訴状があれば、」(ヨブ記31:35)

といわれています。

◉「諸冊」である、詩篇をみると、

「私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
ーーバビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。」

という言葉があります。

◉新約聖書でも、

「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。
そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。」(Ⅱヨハネ10-11)

「私の兄弟たち。
だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。
そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ーーああ愚かな人よ。
あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」(ヤコブ書2:14、2:20)

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」

「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ書1:8、1:12)

というパウロの証言的断定や、前例した新約的証言の強烈な主張をみることができます。

目的的解釈の「一文章から全巻へ」の進行に対して、これらの言葉が刺激となり動力となるというのは、これらの証言の排外的個性の論理です。

これらの排外的性格をもつ多くの証言は、読み手に、どうしてもそれらを越えるより高い「止揚点」へと「一文章から全巻へ」と上昇させずにはおかない動力をもっています。

証言者が「わたしの伝えた福音」として、キリストに対して証言するとき、その証言は絶対的な確信でされたもので、その意味で、自己と少しでも異なるものを絶対にいれることのできない排外性をもっています。

このことは、

「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。
私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ書6:17)

と確信をもってしるした証言が、上記のものであったことは論じるまでもありません。

したがって、証言の論理は、どんな意味においても、二つの異なる証言を、調和的に解釈することを許しません。

読み手は当然この証言的矛盾に押し進められて、「一文章から全巻へ」読まされるのです。

ここに目標的解釈における刺激と動力よりも、より強烈なそれを見いだします。

ここでさらに注意されることがあります。

それはここに語られている旧約聖書と新約聖書の証言的解釈とは、信仰者の解釈であるには違いありませんが、それはどこまでも、人間的営みであるという一点です。

ここで二つの例を挙げます。

第一は、レオナルド・ダビンチの名画「ヨハネの手」で、第二は牧渓の「猿猴水中の月を掬す」です。

「ヨハネの手」によってキリスト証言の書として旧約聖書が象徴され、「猿猴水中の月を掬す」によって新約聖書が象徴されます。

ダビンチの絵では、

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネ1:29)

と云って、キリストを指示する「手」が描かれ、その指示されているキリストはまったく描かれず、これを見る者の想像に任されています。

旧約聖書の「キリスト証言」とは、ちょうどこれと同じです。

それはキリストを「指示してはいるが」、彼を描いてはいないのです。

信仰をもってこれを読む者は、その「手」をそこに見ますが、「キリスト」をそこに見ることはできないし、見てはならないのです。

ところが牧渓の絵では、水面に月が具体的に映されています。

でも、それは真の月ではなく、真の月は水面をみている猿猴の背後の中天にかかっているのです。

新約聖書のキリストはちょうどこの水中の月なのです。

そこに描かれているキリストはキリストですが、しかし真のキリストの姿が、人間の言語によってそこに投影されたものです。

したがって、この水中の月を述べることが、そのまま中天の月を述べることにはならないように、新約聖書、ことに福音書のキリストを述べることが、ただちに真のキリストを述べることにはならないのです。

目的的解釈者の限界は、この中天の月を彼のうちに示されることにより、それによってその水中の月を述べるということなのです。

その中天の月が彼のうちに示されるのは、その水中の月の証言によってです。

この目的的聖書解釈者は、この意味で聖書の証言的解釈に着手しなければならないのです。

読み手は、この超越的全体理解または証言的理解で、聖書解釈が初めて「包括的解釈」となりうることを知るのです。

聖書解釈は、その最も直接的な一文章から始められますが、それはすでにその全体理解の要請によって、進まされるものになります。

読み手が「聖書を解釈しよう」と思いたった時、彼のうちに「潜在していた」ものが、彼を駆ってそれに具体的に着手させ、その一文章の解釈から始めさせながら、彼のうちなる「含蓄的なもの」を、徐々にその解釈の進行にしたがい「顕在的に」させてゆくのであって、これが聖書解釈ということの意味なのです。

◉「存在が問われるのは、存在が問わせるのである」とは、上記を論理的に説明した言葉です。

この目的的解釈においては当然、新約聖書の目的的解釈が先行し、旧約聖書のそれが後続するよう進められなければなりません。

それは旧約聖書を「キリスト証言」として見るのは新約聖書であり、旧約聖書をそれとして解釈するのは、「新約聖書の旧約聖書解釈に原理」にのっとるべきことの当然の結果だからです。

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信仰雑話>38-13「どうしたら正しく理解することができるか?」84、次は38-14「どうしたら正しく理解することができるか?」85
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