35-25「どうしたら正しく理解することができるか?」51

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(51)出来事の事例

◉英国国教会の監督バトラーは、「The analogy of Religion」を1736年に刊行しました。

彼は1752年6月、臨終の床にありましたが、彼はそのチャプレンを呼んで、
「自分は罪を犯さないように、あらゆる努力をし、神を喜ばせるために全力を尽した。
しかし、不断の弱さのために、自分は今死ぬのが怖い」
と言ったのです。

その時チャプレンは、
「監督よ。
あなたはイエス・キリストが救い主であることを忘れておいでになる」
と答えました。

バトラーはさらに、
「そうには違いない。
しかしイエス・キリストが私の『救い主』であるということを、どのように知ることが出来るのか?」
と聞きました。

チャプレンは、
「監督よ、聖書には、
『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。』(ヨハネ6:37)と書いてあります」
とヨハネ伝の言葉で、バトラーに答えたのです。

バトラーは、
「本当だ、私は聖書を数千回読んだけれども、この瞬間までその力を感じなかった。
しかし今は幸いに死ぬことができる」
と答え、静寂のうちに、60歳をもって同月16日永久にその目を閉じました。

キリスト教会史はこの「出来事」の連続であったし、また連続でなければならないのです。

この「出来事」の連続であったからこそ、あらゆる俗化と堕落とにもかかわらず、今日なおそれが「キリスト教会」であり得るのです。

それが昨日のそれだけでなく、今日のそれだけでなく、明日もまた「キリスト教会」であるためには、この「出来事」の連続でなければならないのです。

そうであってこそ教会がその「正典」として信奉させられた聖書が、「キリスト証言」であるといわれた意味と事実とが、不断に、くり返して、具現されるのです。

バトラーのほかには下記のような事例もあります。

古典的なものとしては、
◉アウグスティヌスの場合は、ロマ書13:13を読んだ瞬間が彼の「できごと」の瞬間でした。

(ロマ書13:13以下=

「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」)。

◉フランチェスコの場合の「出来事」は、下記の箇所を読んだ瞬間に起こされました。

(マタイ10:9以下 =

「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。
旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。
働き人がその食物を得るのは当然である。
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。
その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。
もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。」)。

◉ルターの場合の「瞬間」は、ロマ書1:17でした。

(ロマ書1:17=「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」)。

◉近世では、パスカルの場合があげられます。

「恵みの年一六五四年十一月二十三日、月曜日、教皇であり、殉教者である聖・クレマンおよび殉教者名簿の中の他の人々の祭日、殉教者・聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、夜十時半ごろより零時半ごろまで。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』(出エジプト記3:6、マタイ22:31)
哲学者および学者の神ならず、確信、確信、感激、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。
『わが神、すなわち汝らの神。』
神以外のこの世およびいっさいのものの忘却」
とは、この「出来事」をしるした「彼の覚え書き」の言葉です(由木康著「パスカル伝」140ページ)。

◉これと同様のことが、米国ニューイングランドの大神学者であり、大説教者であったジ’ョナサン・エドワーズにおいても起こっています。

彼はある日、
Ⅰテモテ1:17=

「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。」

を読んでいましたが、突然その言葉を通して、神と神的なすべての事柄に対する内的歓喜が彼の全身をひたしたのです。

これが単なる一時的感情でなかったことは、彼がこの「出来事」とともに、その全存在を神にささげる決意をしたことによって知られています。
1723年1月12日のことでした。

◉日本人として知られているのは、同志社大学の創立者・新島襄氏です。

新島襄氏のことについては、同志社大学神学部教授・小原 克博氏のネット上の記述を引用させていただきます。「」内は新島襄氏の日記です。

「ある日、友人を訪ねると、彼の書斎で聖書を抜粋した小冊子を見つけた。
それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、聖書の中のもっとも重要な出来事だけが記してあった。
私はそれを彼から借り、夜に読んでみた。
なぜなら聖書を読んでいることが知れると、幕府は私の家族全員を磔(はりつけ)にするので、私は野蛮な国のおきてを恐れていたからだ。」

小冊子、しかも漢文で書かれた小冊子だということがわかります。

日本語ではなく中国でつくられたであろう漢訳の聖書の一部を抜粋したものを新島は手にして、しかもそれをこっそりと夜に読んだということです。

見つかったからといって当時、磔にされるとは思いませんが、まだキリシタン禁制の高札が立っていた時代ですから、おおっぴらに聖書を読むことは憚(はばか)られていました。

ひっそり隠れるように聖書を読むなかで、何を読み取ったのかを新島は書くのですが、その一部を紹介したいと思います。

「私はその本を置き、あたりを見まわしてからこう言った。
『誰が私を創ったのか。
両親か。
いや、神だ。
私の机を作ったのは誰か。
大工か。
いや、神は地上に木を育てられた。
神は大工に私の机を作らせられたが、その机は現実にどこかの木からできたものだ。
そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない』」。

新島はもっとちゃんとした聖書を読みたいという気持ちが大きくなっていくのです。

そして彼が超えられなかった一線、家族思いで家族を残しては国を捨てることかできないという新島を最後に一押ししたのが、まさに創造主なる神との出会いであったということです。

ここは断片的な小さな、小さな聖書の一節が新島の心をとらえて、天地創造の神と出会わせたのです。

(以上、同志社大学神学部教授・小原 克博氏のネット上の記事を引用させていただきました)

上記のように
◉「聖霊」による一新の結果は、他者がみても判然とわかるものなのです。

◉その人の神に対する態度は、必ず、社会的、水平的態度に反映される、というのが旧約聖書と新約聖書の一貫した主張です。

【参考】

「イエスは言われた。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。(垂直関係・対神関係)
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(水平関係・対社会関係)(マタイ22:37~40)

イエスが「ヨベルの主」(貧しい者の「めぐみの年」)と自現された通り、より富める者が、より貧しい者の貧しさを、より強い者が、より弱い者の弱さを、より賢い者が、より愚かな者の愚かさを「負う」という実践が行われるからです。

この「出来事」を体験した人が教会の創始者になると、その「出来事」の媒介となった聖句から発生した「教義」によって、聖書を解釈するようになります。

この創始者が、彼の上に起こった「出来事」の媒介となった聖句を標準として、聖書全体を解釈するのを、教義的解釈として否定せず、「より正しい」ーー真の個性的解釈と呼ぶのは何故でしょうか。

それは一言で答えることができます。

◉人間にはこれ以上の聖書解釈は望み得ることでもなく、許されてもいませんし、これ以下の聖書解釈を真なりとすることも許されていません。

ここに聖書解釈の結論に関する
◉個性的差異が必然的に起こるし、また起こらざるを得ないのです。

ここまでくると、下記の聖書の
◉「公同性」の意味が理解されてきます。

聖書解釈者は上述の「出来事」が彼の上に起こっても、なお彼の聖書解釈の結果が、可謬的であり、一面的であり、個性的であることを学びます。

それを少しでも是正するためには、彼の結論の上に確信的に立ちながら、しかも彼はなお聖書に沈潜して、聖書中にある彼の結論と正反対の結論を引きださせるものと対決しなければならないのです。

そのとき初めて彼は、一面的であり、個性的でありながら、徐々に聖書の「公同性」へと導かれてゆくことができます。

【公同性】

「包括性」あるいは「多彩性における統一」unity in varietyという聖書の自己主張の様式が、すなわち「公同性」の原理です。

結論的に言えば、聖書の規範的権威は、この「公同性」すなわち「多彩性における統一」においてしか現われ出て来ないところの、特殊な性格をもっています。

聖書を構成しているのは、調和しがたい個性的主張をもつ六十六冊の書物だからです。

しかしそれにもかかわらず、主が、
この聖書はわたしについてあかしをするものである
と言いたもうた言葉に、教会は、聖書の「キリスト証言」という統一的性格を見いだしました(ヨハネ5:39)。

したがってたとえば、ローマ人への手紙は、キリスト教の本質を公的に明らかにするものとして完璧な書でありながら、これ一冊をもって、聖書全体に代えることは許されません。

この「公同性」ということは、聖書の自己主張の様式であると同時に、教会の存在様式です。

信仰は一つ、御霊は一つ、バプテスマは一つであり、「キリストの体なる教会」もまた一つです。

したがって、全世界の教会は単一の教会においてあるものです。

いうまでもなく、「多くの肢・えだ」とよばれている個々の現実の教会は、それぞれ教派的伝統をになっております(Ⅰコリント12:14)。

各個教会はたとえ、教団という公同的枠(わく)の中に入れられたものであっても、それぞれ過去の遺産としての個性的主張や個性的傾向において、色彩を異にしております。

人間は本来、個性的存在であるように、各個教会が個性的であるということは、何ら責むべきことではありません。

しかし「個性的であるということは、必然的に一面的である」ということの認識がこれに伴わなければとんでもない結果を招くことになります。

つまり、個性的であることが、ひとたび、他との対話関係を断ち切ってしまって、自己のみ(自己の教派のみ)に閉じこもってしまうことを意味するとなると、これは致命的です。

そこには必ず、「ひとりよがり」と「偏狭」と「教派主義」とに虫ばまれる弱体化が待つのみだからです。

教会史の立証をまつまでもなく、現実の教会は、裂き得ざる「キリストとの体」を裂くという危険を、つねにはらんでいます。

このような危険から救われる道は、聖書正典の規範性ひいてはその「公同性」に立ち帰らされるほかありません。

というのは、他と対話できないほど、自己に立てこもるということは、とりも直さず信仰的判断の、究極的規範を、自己または自己の教派においているということの証拠だからです。

したがって、他教派との対話が可能な地盤に立つためには、各教派が、聖書正典の「公同的規範」を、「究極的なもの」として信奉する、というところまで、歩み出さねばならないということになります。

聖書のさし示す「公同性」とは、現実教会それぞれのもつ固有性を殺すものではなく、かえってこれを生かすものです。

固有性を殺したところに成り立つのは、画一性であって「公同性」ではありません。

したがって各個教会およびその伝統的遺産の、個性的特徴を包括的に生かしつつ、しかもこれらを致命的な分裂に至らせないためには、ただ一つの道しかありません。

約言すれば、聖書正典信仰とそれに立脚した解釈のみが、あらゆる教派を対話関係に保たせうる唯一の「広場」であるということです。

それでは、現代のいわゆるエキュメニカル・チャーチ・ムーブメントがめざしている世界教会がなぜもっと早く実現しなかったのでしょうか。

その原因は種々考えられますが、その根本的原因は、この聖書の正典性、ひいてはその規範性と「公同性」とが、厳格にかつ深刻に掘り下げて考察されなかったということではなかったでしょうか。

それは、要するに、各教派、各個教会はーーその肢である個々人をも含めてーーそれぞれのもつ「伝統的主張」を聖書によって裏づけるのに急で、「聖書正典」が総体として、各教派の個性的主張を「公同的」に包括しつつ、それをひとたび殺して生かすーーあるいは否定して肯定するというところまで思い至らなかったことにあるといえます。

今日の急務は、聖書正典の権威とその位置の確立を、教会全体の死活問題として、期することではないでしょうか。

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信仰雑話>35-25「どうしたら正しく理解することができるか?」51、次は36-5「どうしたら正しく理解することができるか?」52
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