35-3「どうしたら正しく理解することができるか?」29

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(29)レ ビ記

◉「聖なる神」

現形レビ記が仰がせる神は「聖なる神」です。

ヘブル語の「聖」とは、本来「分つ」または「離す」という意義をもっていますが、レビ記はこの聖なる神が、選民に対して要請する「聖別」の思想を集中的に究明してます。

先立つ出エジプト記によれば、選民とは「祭司の国」「聖き民」という性格を担うべきものでした。

しかし選民といえども、現実には汚れ多き姿にあります。

「聖」とは絶対者である神にのみ当て嵌まる属性であるのに、現実的に汚れた民が、いかにして「聖き民」となり得るでしょうか。

この問に答えるため、選民的聖別の秘義を開示するのがレビ記です。

絶対的主体である神が、有限者である民と契約関係に入り給うということが、矛盾であるのと等しく、絶対に聖なる神が、汚れを免れ得ない民と偕(とも)に住み給うことは絶大な矛盾です。

この両者の間に存する超え難い断絶を超克させるものは何でしょうか。

これに対して、レビ記は次の三つの途をあげています。

◉第一は有限者が無限者を指し示すための「象徴による途」であり、

◉第二は汚れた者が聖い者に近づくための「聖別による途」であり、

◉第三は所有される者が所有する者との関係を実感させられるための「実践の途」です。

以下順次これを概観します。

◉「象徴による途」

神が選び主であり、イスラエルが選ばれた民であるという関係は、一方が
◉「絶対者」であり、他方が、
◉「有限者」であるところから、これを現わす適当な言がありません。

したがってそこには、
◉「象徴」によって述べる以外に途がないわけです。

ここに選び主である神と、選ばれた民との関係の一切は、
◉「象徴による」べき必然性があります。

例えば、選民の
◉「幕屋」でも、
◉「神殿」でもーー
▲そこは「異教」の考えるように、
▲「神が常住する場」ではなくーー
そこは、
◉「神の栄光の充ちるところ」であり、
◉「神がモーセと語り給うところ」であり、
◉「神がその『御名』をおき給うところ」です(列王紀上8:29)。

ここで「象徴による」とは、極めて逆説的なことです。

それは、
◉「象徴」とは、本来それに、
◉「盛り得ない意味を盛る」ことであり、したがってそれにおいて、それを超えた
◉「他者を指示する」ということだからです。

◉その意味で、過去における旧約聖書解釈の最大の誤謬は、
◉「象徴的表現を存在的(リアル)」にとり、その上に、
◉「教義を建設」しようとしたことでした。

したがって、選び主である神と、選ばれた民であるイスラエルとの特殊な関係をその主題とする旧約聖書の理解は、この
◉「象徴の指示性の正しい解釈」にかかっていると言えます(この問題に関する著名な詳論は、渡辺善太著『聖書論』の聖書解釈論に論じられています。
同書は、市場にはほとんどないので国会図書館や神学部のある大学の図書館でしか手に出来ません。)

【注】
渡辺善太博士の「聖書解釈論」の目次です。
聖書解釈論


緒論
第一節 聖書解釈論の課題
一 文献解釈の意義
二 聖書解釈の課題
三 本書主題の意義
第二節 聖書解釈学の基準
一 新約的旧約書解釈概観
二 新約的旧約解釈結論
第三節 聖書解釈学の発達
一 寓意的聖書解釈の発達ーー聖霊のみわざを人間が代行せんとした解釈
二 教義的聖書解釈の発達ーー神の広さを人の狭さをもって制限する解釈
三 歴史的聖書解釈の発達ーー最大の前提を無前提なりと過信した解釈
第四節 聖書解釈史の志向
一 三解釈学派の批判
二 三解釈学派の志向
第五節 本書本論の区分
第一章 聖書本文の意義決定的解釈
第一節 聖書の辞義的解釈
一 聖書の辞義的文法的解釈
(1)辞義明瞭なる語句の解釈
(2)ただ一回用いられたる語句の解釈
(3)多くの同義語の存在する語句の解釈
(4)所与の本文の文法的構成の解釈
二 聖書の修飾的詩文的解釈
(1)修飾的表現の解釈
(2)詩文的表現の解釈
(3)詩文的表現の種類
第二節 聖書の象徴的解釈
一 辞句的象徴の解釈
(1)換喩による象徴的表現の解釈
(2)提喩による象徴的表現の解釈
(3)明喩による象徴的表現の解釈
(4)隠喩による象徴的表現の解釈
二 秘儀的象徴の解釈
(1)「色」による象徴的表現の解釈
(2)「名」による象徴的表現の解釈
(3)「数」による象徴的表現の解釈
三 具体的象徴の解釈
(1)現実的の「もの」による象徴的表現の解釈
(2)異象的の「もの」による象徴的表現の解釈
四 思想的象徴の解釈
(1)隠喩による象徴的表現の解釈
(2)なぞによる象徴的表現の解釈
(3)箴言(ことわざ)による象徴的表現の解釈
(4)寓話による象徴的表現の解釈
(5)譬喩による象徴的表現の解釈
(6)寓意による象徴的表現の解釈
五 行為的象徴の解釈
(1)象徴と預言者の生涯
(2)象徴としての預言者の行為
第三節 意義決定的聖書本文の解釈の不十分性
第二章 聖書表現の意味形成的解釈
第一節 聖書の目標的解釈ーー聖書の全巻的解釈
一 目標的解釈の仰望的方法
二 目標的解釈の展望的方法
第二節 聖書の目的的解釈
(1)書物個々の目的的解釈
(2)各書総関の目的的解釈
(3)新約書構造の目的的解釈
(4)新約書全巻の目的的解釈
二 旧約書の目的的解釈
(1)類型的に見たる旧約書の目的的解釈
(2)類型的書物総関の目的的解釈
(3)旧約書形態的構造の目的的解釈
第三節 聖書解釈と証言による出来事
第三章 聖書統体の意図対決的解釈
(1)問題の存在
(2)難題の認識
(3)主題の探求
(4)命題の発見
(5)課題の追求
(6)主題の解明
第二節 聖書統体の意図対決的解釈の実践
一 問題の存在
二 難題の認識
三 主題の探求
四 命題の発見
五 課題の追求
六 主題の解明
(1)キリスト教会の創設
(2)キリスト教会の超世界性
(3)キリスト教会の内世界性
(4)キリスト教会の外世界性
(5)キリスト教会の共世界性
(6)キリスト教会の抗世界性
(7)キリスト教会の充世界性
(8)キリスト教会の終末

◉「聖別による途」

礼拝とは本来、汚れた人間が聖い神に近づく途です。

したがって、そこにおいて第一に問題となるのは、その人間と神とを無限に隔てている「罪の処理」です。

これは選民の宗教生活において、まず、「供物の規定」を通して教えられたところです。

レビ記はこのために神は、五つの「供物」を規定し、礼拝者がそれによって「聖別されるべき途」を指示し給うたものとみてます。

◉第一は「燔祭(はんさい)」で(レビ記1章)、
それは本来動物の供物が焼かれて、その香が「上昇する」ところから、罪ある人間が自らを神に全く献げる「献身と奉仕」を、

◉第二は「素祭(そさい)」で(レビ記2章)、
それは過去の「恩恵の記念」を、

◉第三は「酬恩祭(しょうおんさい)」で(レビ記3章)、
それは神と人との「交り」を、

◉第四は「罪祭(ざいさい)」で(レビ記4章)、
それは「罪の贖い」を、

◉第五は「衍祭(けんさい)」で(レビ記5:1-6:7)、
それは特に「人に対する愆(とが)の処理」を象徴するものとされてます。

汚れた人間が聖い神に近づく途として、次にレビ記は祭祗を司る祭司及び大祭司の潔めの途を指摘し(レビ記8-10章)、さらに、民族全体に対する「大贖罪日」を規定しています(レビ記16章)。

この事においても、聖き者は神のみであって、民と神との間の執成にあたらせられる大祭司あるいは祭司といえども、聖別を要する汚れた存在であることが明示されています。

次に、レビ記が全面的に力説しているのは、聖いものと汚れたものとの「区別」であり、「識別」です。

聖いものが汚れたものの中におかれている時、聖いものに対する「感覚」が欠けていれば、聖いものは汚される危険にさらされます。

したがって、この識別の感覚は、民一般に対してはもちろん、ことに、祭司に対してはより鋭く要請されます。

したがって、祭司アロンに対しては、
「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。
これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない」
と命ぜられ、その理由として、
「これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため」であると述べられています(レビ記10:8-11)。

ここで「酔う」ということは、聖俗・浄不浄の感覚をにぶらせる源であることが特に注目されます。

またアロンの子らナダブとアビフが香を火皿に盛って、神の前に「異火(ことび)」を献げた行為は、火をもって罰せられ、彼らは即座に死んだと記され、その時神は「わたしは、わたしに近づく者のうちにわたしの聖なることを示」す者として自己を現示し給うたとみられています(レビ記10:1-3)。

◉「実 践 の 途」

イスラエルがヤハウェの選民とされたということは、レビ記によると、ヤハウェは、「所有する者」となり、イスラエルは「所有される者」となることであると言われてます。

イスラエルはこの所有者対被所有者の関係を、その神の前に、つねに「実感」し、それによって、聖前にへりくだらなければならないのです。

レビ記がこのために示しているのが、「実践の途」です。

その実践とは、イスラエルの社会生活において、彼ら自身が「所有者」であるという、意義と権利とを否定し、これを彼らの実生活に現実化することです。

この点を選民生活に徹底させるため規定された代表的な例が、「安息の年」及び「ヨベルの年」でした(レビ記25章)。

すなわち「安息の年」にはーー
◉「地はわたしのものだからである」と神御自身によっていわれているように(レビ記25:23)ーー田野に種をまかず、これに安息を与え、土地が選民に属さず、選び主に属するものであることを銘記すべきでした(レビ記25:1-7)。

また「ヨベルの年」は、土地と人民の釈放の年とされ、貧しいため、その身を売って奴隷状態に在った者は、その買主の許から無条件的に釈放され、その家に還ることを許され、他方、カナン侵入以来、与えられるべき不動産を、手放していた者も、その年にはそれが無条件的に元の持主に返還されるべきでした(レビ記25:8-55)。

これらの社会的・経済的規定は、直接的目標としては、人間の自己中心的欲に由来する、貧富の差を是正するためでした。

しかしレビ記ではそれは、選民及び土地が
◉「神の所有」であるという、より根源的な前提の反映としてみられ、イスラエルの個人の所有権の否定によって、自己の
◉所有主なる神の前にへりくだるべきを教えたものです。

恩寵によって選ばれ、恩寵によって出エジプトさせられたイスラエルは、「神の所有」です。

「主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである」と言われています(レビ記20:26)。

聖別の目標はむしろ「神有」の徹底です。

自己が聖なる神の「所有」である、という意識こそ、人を根源的に他から聖別させるからです(レビ記25:42)。

したがって「汝等聖く在るべし」という、選び主の要請に、選民をして応答させるための備えもまた、上記のように、神によって整えられたのでした。

以上が現形レビ記の指し示す思想の輪郭です。

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