35-2「どうしたら正しく理解することができるか?」28

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🔳「どうしたら正しく理解することができるか?」(29 )

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(28)出エジプト記

◉「選民性の確立」

現形出エジプト記の思想は、「選民性の確立」ということです。

現形出エジプト記は選民性の確立の根源を「神と民との契約」にみてます。

しかもこの「契約」は選び主としての神の逆説的性格を語り、また選民の選びの逆説的性格を規定するものとみられています。

創造の主にして、歴史の主である神は「絶対的主体」です。

これは創世記が高調したところですが、出エジプト記もこれを力説してます。

それを示す代表的な語は、モーセに対する神の自己現示に際して反復されている「主(ヤハウェ)」という言であり、それをさらに尖鋭な表現にしたのが「我は有りて在る者なり」(改訳・わたしは有って有る者)(出エジプト記3:14)という言です。

これは、何よりも明瞭に、神の絶対的主体性ーーすなわち、他のいかなる者によっても制約されず・また他のいかなるものにも依存しないという絶対的主体性を語るものです。

出エジプト記は、この絶対的主体である神が、地球上の一弱小民族であるイスラエルと、「契約」に入り給うたことを告げてます。

契約とはいうまでもなく、契約によって結ばれる両者を制約することを意味してます。

したがってここには実におどろくべき逆説が指摘されることになります。

絶対主体者が相対者と契約関係に入るということは、他の何ものによっても制約されないことをその本質とする絶対者が、あえて御自身を、他によって制約される者となり給うたことだからです。

選民を選民たらしめるためには、神の側においてこのような逆説が、要請されていたということです。

こうしてこのような選び主の側における逆説が、選民においていかに自覚されるべきであったかを語るのが、出エジプト記の意図です。

現形出エジプト記はこれを
◉選び「絶対無条件的であり、しかも条件的である」という逆説として提示してます。

◉「無条件的選び」

神によるイスラエルの選びは、無条件的です。

それは、選びとは本来神の「絶対的自由意志」に基づくものであり、それは「恩寵」に基づくものであるからです。

前述したような神の側における逆説は、人間に対しては「恩寵」として投映されます。

この選びが全く彼ら選民の価値とは無関係であるという、選びの恩寵的性格の認識が、選民性の確立において欠くべからざるものであることを示すために、出エジプト記は、次の二つのことをあげてます。

一はその回想における認識としての
◉「逾越節(ゆえつせつ・過越祭)」であり、他はその具現による認識としての
◉「マナの分配法」です。

前者は選民生活の「歴史的規定」であり、後者は選民生活の「社会的規定」です。

⚫︎「逾越節(歴史的規定)」

パロの圧迫下から解放され、出エジプトさせられることは、選民性確立の第一義的条件でした。

しかもこの出エジプトの実現は、あくまでも「主の強き聖手の業」でした(出エジプト記13:3)。

【参考】

「モーセは民に言った、
「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。
主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。
種を入れたパンを食べてはならない。
あなたがたはアビブの月のこの日に出るのである。」(出エジプト記 13:3-4)

出エジプトは、神のイスラエルに対する恩寵の具体化でした。

それゆえに選民性確立の恩寵的根拠を、その選民生活の日常の自覚として浸透させることこそ、出エジプトの教育的目標でした。

これを記念するために始められたのが「逾越節」(過越)の規定です。

この恩寵による「過越」が、まず選民の歴史形成の出発点となるべきで、彼らの暦日は、「過越」を基点として新たにされました(出エジプト記12:2)。

【参考】
「主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。」(出エジプト記 12:1-2)

この「過越」の中心的象徴は「小羊の血」 であり、それに対しては、
「わたしは主です。
その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。
わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない」(出エジプト記12:12-14)
と記されています。

こうして、選民生活は、恩寵の歴史の現在的再確認によって裏づけられるべきでした。

⚫︎「マナの分配」(社会的規定)

無条件的な恩寵にあずかる者は、縦に働くその原理を、横の関係の規定にまで映す筈です。

無条件的選びにあずかる者が、まず学ばされることは、自己は他者に対して「何ら権利を要求し得ない」者であるということです。

したがって、恩寵の選びにあずかった民の社会生活もまた、「権利」に基礎をおかないのです。

ついでながら、創世記の「楽園物語」に示唆されている労働観も、やはりこの原理から出てます。

【参考】創世記の労働観
「こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」(創世記 2:1-3)

主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」(創世記2:15)

聖書の労働観によれば、勤労は義務であって、何ら個人的権利を発生させません。

選民の荒野における訓練の、一横断面としての「マナの物語」も、「個人的権利主張」に立たない社会意識の要請を示すものです。

指導者モーセの命に従ってなされた「マナの分配」の結果に対して、
「イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。
しかし、オメル(桝)でそれを計ってみると、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった」(出エジプト記16:17-18)
と述べられています。

この「マナ分配」の基礎には、「力量に応じて働き、必要に応じて受ける」という経済的原則が前提されてます。

そこでは「働くこと」と「受けること」とは、非連続的な事柄としてみられてます。

そしてそこでは、社会を構成する各個人における「力量」の「不平等」ということが前提され、それにもかかわらず、その受ける生活資料は「必要に応じる」という「平均」が要請されています。

◉したがってイスラエルにおける強者は、この社会的規定の実践にあたって、自己の労働量による生活資料獲得という観念の誤りを認識させられ、その資料の受領があらためて神の「恩寵であること」を知らしめられるのです。

そしてそこでは彼はこの規定の実践を、「自己の権利放棄」と考えることさえも許されないのです。

◉さらにまた弱者は、彼がエジプトの生活においては、何ら受けるべき権利のない生活資料の受領ということによって、神の恩寵を端的に知らしめられるのです。

こうしてイスラエルは、一方には過越によって奴隷状態からの解放の恩寵を想起させられ、他方にはイスラエルにおける強者弱者ともに、この社会的実践によって、権利によらない生活資料の受領を通し、神の恩寵を感謝させられるのです。

前者は過去的回想によるものであり、後者は現在的実践によるものです。

⚫︎「条件的選び」

第一項においては、選民の選びが「無条件的」恩寵によるものであると述べました。

しかし出エジプト記全体からみると、他方にはこれを否定する提言が見出されます。

結論的にいえば、出エジプト記は、選民の選びは無条件的であって・しかも条件的である、といっているのです。

選民の選びが条件附きである、という主張は、最もよく出エジプト記の次の言に要約されてます。

選民に対して、
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからです。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19:5-6)
と言われています。

「もしーーならば」という条件文からなるこの表現は、疑う余地なく、選民は一つの条件によってのみ「選民となる」ことを示してます。

言いかえれば、
◉「無条件的選び」は、「選民は既に選民である」といい、
◉「条件的選び」では「選民が選民であるのは、選民となることによってのみである」というのです。

すなわち選民が「祭司の国」・「聖い民」となるためには、「神の言」に聴従し、契約の言を守るということが、その絶対的条件として要請されるというのです。

それは、「祭司の国」かつ「聖い民」という性格は、神の言への聴従と離れる時に即座に失われる危機的性格のものだからです。

◉「祭司の国」とは、万民に代ってその罪を執成す役目を担うことを意味し、したがってこれは万民に向かって「開かれた」性格です。

◉他方「聖い民」とは、他民族から聖別されたものであり、したがって、それは他民族に対して「閉ざされた」性格です。

実にこの意味において、選民とは、他に向かって「開かれていて、閉ざされており・閉ざされていて、開かれている」という危機的逆説的性格を担う存在なのです。

現形出エジプト記は、この危機的性格を具現させるために神が幕屋を建設させ、祭司制度を規定させ給うたことを示してます。

そうしてこの幕屋に関する一切の規定と、「石の板」に記した十戒は、この聖なるおもんぱかりによって与えられたものです(出エジプト記25-31章、35-39章、20章、34章)。

以上において、選びの恩寵は、選び主の側の逆説を指示すると等しく、選ばれた者に対してもまたきびしい逆説的在り方を要請することが明らかにされます。

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