35-1「どうしたら正しく理解することができるか?」27

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🔳「どうしたら正しく理解することができるか?」(27)

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(1)創世記

現形創世記の思想は、「神の言のもつ形成力」ということです。

現形創世記では次の三点が力説されています。

第一は、神の言による創造であり、
第二は、神の言による改造であり、
第三は、神の言による歴史です。

◉「神の言による創造」

創造は神の言によって成った」というのが、創世記冒頭の信仰告白です。

「はじめに神は天と地とを創造された」
という頭書をもって始まる創造の記述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚(こたん)等から成り立ってます。

ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の具として用いられ、その元の意味は変容されてます。

そこには、その中のあらゆる素材を通して、一つの比類ない「確信」が語られてます。

その確信とは「創造は神の言によって成った」ということです。

現形創世記によれば、創造とは、「神の言のもつ形成力の宇宙的発現」です。

この確信には少なくとも、二つの深遠な思想が含まれてます。

⚫︎第一は、神の言はあらゆる「存在の根拠」であるということです。

このことに対する新約聖書での表現は、ヨハネ伝序文の、

「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ1:1-3)

という言です。

神の言とは神の意志表示であり、したがって神のロゴス(言)とは全被造物にその処を得させる創造の秩序です。

⚫︎第二は、神の言は「必ず成る」という思想です。

「神は『光あれ』と言われた、すると光があった」(創世記1:3)

のように、現形創世記は一つひとつの創造に対して「神の発言」が先行したとみてます。

明らかに、そこには、「神の言は語されると必ず具現する」という真理が指示されてます。

それは、人間の語る言葉が象徴し・指示するに止まり、そこに必然的に「空虚」がひそんでいるのとは、正反対な事態です。

それが「人の言葉」でなく、「神の言葉」である、という徴(しるし)は、「それが語られると必ず成る」ということです。

神の言は、取りもなおさず、神の「絶対主体性」の発現だからです。

⚫︎神の創造の頂点ともいうべき人間創造というのは、この神の絶対主体性を弁別し得る・他の主体としての人間の創造です。

他の一切の被造物とは異って、人間のみが、「神の言」に向けて造られ、神の言を媒介として、彼と人格的に交わり得る「主体」だからです。

◉「神の言による改造」

人間が「人格的主体」として創造された、ということは、創世記の創造観の頂点です。

そうしてこれが神の本質の秘義であり、また同時に人間存在の秘義でもあります。

◉これは取りもなおさず、神があらゆることを犠牲にしてまでも貫こうとし給うた一つの事柄です。

それは、人格的主体とは、「自由」意志的存在であり、したがって「神にさえ背き得る存在」であることを意味するからです。

換言すれば、創造主は、御自身に対して背き得る存在を、御自身の「一切を賭けて」創造し給うたということです。

⚫︎「神の言による改造の必然」

果して、人間は、その自由意志という「貴い特権」を、創造主への背反において表現しました。

神の言への背反とは、創造者ならざる者が、創造主の位置に身をおこうとすることであり、神のようにすべてを自己の意志にしたがって支配しようとすることです。

神の言への背反とは、「神のごとくなろうとする」人間の支配欲の表現ですから、そのまま創造の秩序の破壊の根源です。

創造に秩序を与えるのは神のロゴスですから、このロゴスへの背反はそのまま渾沌の始源です。

神のロゴスは宇宙に秩序を与え、これをロゴス化する原動者ですが、神のロゴスへの背反は反対に、宇宙のカオス化(渾沌化)への転落です。

このような「神のごとく支配しようとする」人間の支配欲は、一つの文化体系として、本書11章の「バベルの塔物語」において象徴的に語られてます。

【参考】「バベルの塔物語
「全地は同じ発音、同じ言葉であった。
時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。
彼らは互に言った、
「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。
こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、
「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。
そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、
「民は一つで、みな同じ言葉である。
彼らはすでにこの事をしはじめた。
彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた。
主がそこで全地の言葉を乱されたからである。
主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」(創世記 11:1-9)

その体系は、創造信仰の光の前には、皮肉にも「バベル・言葉の乱れ」すなわち「ロゴス無き渾沌」という本質を暴露するものです。

宇宙の改造が、何よりも「ロゴス化」への方向転換として進められなければならない必然性が、ここに明示され始めています。

創世記が、「ノアの洪水」という形での刑罰的改造の後に、「バベルの塔物語」を配列しているその必然性が、あらためてここで注視されます。

「ノアの洪水」によって象徴されている改造は、刑罰的改造であると同時に、環境的改造です。

この視野から見れば、これは環境の改善ーーしたがって外的条件の変革のみでは、人間の衷に深くひそむ背反的性格は除去されないこと、それ故にロゴスへの背反から始まった宇宙の渾沌化からの救拯は、「神のロゴスによる改造」にまたねばならないことを、意味するものとして解釈されてきます。

⚫︎「神の言による改造の始源」

ここに至って、はじめて神のロゴスによる改造の必然性を述べているのが、創世記1~11章までであることが明瞭になってきます。

それというのは、創世記12章の「アブラハム召命」の記事から、神の言による改造のプログラムの端緒がたどられているからです。

すなわちそれはもはや一方的に、単なる刑罰にも、単なる環境の変革にもよらず、「教育的改造」によるプログラムです。

宇宙のカオス化からロゴス化への方向転換は、被造者が神のロゴスにきく、という「主体的服従」の回復にまつからです。

「アブラハムの召命」は、この神のロゴスへの主体的服従を目ざした、「教育的改造」の始源を示してます。

すなわちイスラエル民族の召命が、選民の太祖アブラハムの召命において、縮図として語られているのです。

しかも

「地のすべてのやからは、あなた(選民の祖)によって祝福される」

というのが、その召命を結ぶ言です(創世記12:3b)。

【参考】
「アブラハムの召命、「神の根源約束」
「時に主はアブラムに言われた、
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (国土獲得の約束)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(子孫繁栄の約束)
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。(万民福祉の約束)」
(創世記 12:1-3)

イスラエル民族の選びは、
◉「神の言に服従する在り方の回復をめざす選び」であり、これを目標とする教育ですが、この引照に明示されているように、選民の「神の言への服従的在り方」の回復こそ、他の万民のそれの回復となるのです。

現形創世記はこのように、あくまでも「万民救拯の手段としてのイスラエルの選び」を主張してます。

⚫︎「神の言による改造の秘義」

アブラハムの召命の記事において、極めて短かいのですが、意味深長な言葉が記されてます。

それは、
◉「アブラハムは主が言われたように、いで立った」(創世記12:4)
という言葉です。

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召をこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)

とは、この言葉のヘブル書的註釈です。

要するに、その召命の時、アブラハムが見出した「現実」はーー年齢的条件からいっても、地理的条件からいってもーーすべて神の言の約束の実現に対して、否定を意味するものでしかありませんでした。

しかしそれ「にもかかわらず」アブラハムは、人間的条件とは「非連続的」に働く、「神の言の形成力」を信じて決断的に服従したというのです。

この選民の太祖アブラハムにおいて、選民の担うべき使命と在り方ーー神の言に対する服従ーーが端的に象徴的に大写しにされてます。

しかし創世記に登場させられている主要人物はーーアブラハムも、その子イサクも、その子ヤコブも、ヨセフもーーみな、この「在り方」の「指示者」ではありますが、必ずしも初めからその在り方の完全な「具現者」ではないのです。

彼らは、その「在り方」の訓練と試練との「媒介」として登場させられている、という方が正しいのです。

その最も代表的な場合は、やはりアブラハムにみられますが、彼とても、
◉「神の言が成る」のは、人間的条件「にもかかわらず」成るのであるという信仰を貫くことは容易ではありませんでした。

彼は老い、その妻も老いて、子供は自分たちには生れないのだ、という人間的断定と焦燥感とから、その婢女ハガルによって継子を得ようとした時もありました。

ところがこの人間的「作為」は、その不信仰の本質を審かれ、否定されたことが述べられています(創世記16章)。

【参考】人間的「作為」の審判
「アブラムの妻サライは子を産まなかった。
彼女にひとりのつかえめがあった。
エジプトの女で名をハガルといった。
サライはアブラムに言った、
「主はわたしに子をお授けになりません。
どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。
彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。
アブラムはサライの言葉を聞きいれた。
アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。
これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。
彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。
彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。
そこでサライはアブラムに言った、
「わたしが受けた害はあなたの責任です。
わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。
どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。
アブラムはサライに言った、
「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。
あなたの好きなように彼女にしなさい」。
そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、 そして言った、
「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。
彼女は言った、
「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。
主の使は彼女に言った、
「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。
主の使はまた彼女に言った、
「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。
主の使はまた彼女に言った、
「あなたは、みごもっています。
あなたは男の子を産むでしょう。
名をイシマエルと名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞かれたのです。
彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。
そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、
「あなたはエル・ロイです」と言った。
彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。
それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。
これはカデシとベレデの間にある。 ハガルはアブラムに男の子を産んだ。
アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた。
ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。」(創世記 16:1-16)

以上みたように、神の言のもつ形成力は、人間的「作為」と「前提」とを否定し・それを超えて働くのです。

神の言は、人間に対しては、あくまでも処理不可能な言としてーー非連続的にーー立ち向かうといわざるを得ません。

創世記の指示する宇宙改造のプログラムは、このことの実証です。

それは、「絶対的主体」である神の言による改造だからです。

◉「神の言による歴史」

創造と改造をもってしても、創世記全体の思想は指示しきれません。

神の言のもつ形成力を証しする場として、創世記が指摘しているのは「歴史」です。

創世記はその中に、すくなくとも二つの全く異った歴史観を峻別してます。

それを最も鮮明に縮図的に示しているのが、現形創世記の終に叙べられているエジプトの宰相ヨセフの言です。

「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。
あなたがたがエジプトに売った者ですーー
神はあなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。」(創世記45:4-8四)。

⚫︎「二種の歴史の弁別」

上の言の中には明らかに二つの歴史観が対照されてます。

◉一は、神信仰を除外して考えた歴史の観方・すなわち「普通歴史」Profangeschichteとも呼ばれるべきものです。

すなわち、兄弟らが嫉妬からその弟ヨセフを奴隷としてエジプトに売ったので、ヨセフは現在彼ら兄弟に先じて、エジプトの地に在る、という断定がこれで、それは信仰のあるなしにかかわらず下さざるを得ない断定です。

しかしここで、ヨセフはこれを肯定した上で、さらに、意図的にこの断定を退けて、「私をエジプトに遣わしたのはあなた方人間ではなく、神である」という断定を下してます。

この断定は、神信仰を除外した断定とは区別して、「信仰的断定」といわれるべきものです。

前者はいわば「下からの解釈」であり、「下からの断定」ですが、後者は「上からの解釈」であり、「上からの断定」です。

◉前者はどこまでも「人間を主体として」結論した解釈であり、
◉後者は「神を主体として」再解釈した解釈です。

この「神信仰による出来事の再解釈」は、一般の歴史観からこれを区別して「救拯歴史」Heilsgeschichteと呼ぶべきものです。

⚫︎汚れた人間が形成する歴史は、つねに人間的欲望・野心・嫉妬及び増悪で織りなされたものです。

ヨセフがエジプトに来たのは、明らかにその兄弟らの嫉妬によるものであり、その兄弟をそのヨセフが宰相となっているエジプトへ向かわしめたのも、饑饉(ききん)という自然的状況と、飢えを解消しようとする人間的欲求とでした。

しかしヨセフにおける神信仰は、その一切の人間中心的な歴史解明を超えて、これを高次元から「再解釈」させたのです。

神信仰は、個人の全存在を、その過去・現在・未来を、救拯主への信仰から新しく見直させ、彼の立っている全連関をも、この光において再解釈させずにはおきません。

神信仰はつねにこのような「救拯史的構造」を宿しているのです。

聖書全巻を貫くのはこの「救拯史観」です。

⚫︎「二種の歴史の綜関」

「救拯史」は「普通史」と離れてあるものでないことは明らかですから、当然そこには両者の接渉、あるいは関係が問題となります。

「救拯史」は、神を知らない人間の背反を、何らかの意味において処理しつつ進められてゆくはずです。

このことに関しても、前掲のヨセフの言は充全な解明を与えてます。

すなわち歴史の支配者なる神は、兄弟たちの「悪意」をも、これをその「聖旨遂行」のために、「変容」(止場)し給う、という真理です。

さきに、アブラハムの場合を例証して、神の言のもつ形成力は、人間的作為を否定し、人間的前提を打破しつつ形成されてゆくものであることを見ました。

ところが、作為なきヨセフの場合には、人間的「悪意」をも、これを救拯的目的の実現のために転用し給う「歴史の主」が仰がれています。

以上が、現形創世記の指し示す思想の輪郭です。

創世記の思想の含畜は、汲めども尽きないものです。

その思想表現の材料の素朴なこと、単純なこと、ひいては、その素材の異教的性格や時代的制約の一切「にもかかわらず」、「神の言をもつ形成力」の絶大なことに対する確信を表現し得ていることは、測り知れない驚きです。

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