34-6「どうしたら正しく理解することができるか?」26

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(6)正典解釈

③「個人の救拯史参与」

「神の隠れた歴史支配」は、以上のような「徹底的超越」と「徹底的内在」という逆説的在り方をおいてしか、救拯史を語ることはできませんが、さらにこの点をふまえることなしに、「個人の救拯史参与」の問題に進むこともできません。

聖書の証しする救拯史の主体は誰か。

聖書はそれは、「ヤコブを愛し、エサウを憎む」ような、絶対に自由な神であり、その評価は人間からはまったく隠されている絶対他者です。

だが、聖書は、そのような神の評価が、「唯一の然り」を、イエス・キリストにおいて定着したことを告げます。

「『しかり』がイエスにおいて実現されたのです。
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである」(第二コリント1:19-20)
としるされている通りです。

キリストだけが神の前における「唯一の然り」であるとき、このキリストと無関係な、個人の救拯史参与ということはナンセンスです。

この「神の唯一の然り」であるイエス・キリストと結びつくということは、いうまでもなく、イエスを「主」と告白するということです。

そしてイエスを「主」と告白することは、自己を「主」とする生まれつきの人間にとって、自己をではなく「イエスを主とする」ことは、文字通り革命的な主客転換です。

したがって、それは生まれつきの人間の意志や、努力や、精進に由って出来る転換ではなく、ただ上からの「神の自由な賜物」としての「聖霊」に由らなければならないのです。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(第一コリント12:3)
と明言しています。

キリストを「主」と告白することにより、個人はもはや孤立した人ではなく、「キリストのからだ」の共同体の肢とされ、「御子によって造られ、御子のために造られた」万物ひいては一切の全被造物の呻きを聴かされるのです(コロサイ1:15-17)。

「キリストのからだ」である共同体に働く聖霊によって、その「からだの肢」とされた個人は、
「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを」知るのです。

何故なら「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ロマ書8:18-26)。

【参考】ロマ書8:18-30
「わたしは思う。
今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
わたしたちは、この望みによって救われているのである。
しかし、目に見える望みは望みではない。
なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。
なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。
それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」

選民の祖アブラハムに対する召命の言葉として語られ、約束された全民族の、神の支配の徹底による共存共栄を、選民として失格したイスラエルに代って遂行させられるのが、この「真のイスラエル」であったキリストを首とする「からだ」としての教会です。

【参考】「アブラハムに対する召命の言葉」創世記12:1-3、「神の根源約束」
「時に主はアブラムに言われた、
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(国土獲得の約束)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(子孫繁栄の約束)
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、 あなたによって祝福される。(万民福祉の約束)」。

「共存共栄の条件」である、より強い者、より賢い者が、より弱い者、より愚かな者の弱さ愚かさを負うという救拯史への参与が、被造物全体の呻きを聴かせ、かつ、自ら言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる「聖霊」によって初めて可能とされるのです。

だが、この「呻き」は、何の呻きでしょうか。

それは「被造物が虚無に服した」という認識から生まれる呻きです(ロマ書8:20、上記に引用)。

したがって、教会としての、そしてその肢としての個人の救拯史参与は、当然「悪魔の策略に対抗して立つ」ことを意味します。

ゆえに、
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い」(エペソ6:11-12)
として規定されています。

救拯史は決して絶対者の「顕わな」支配の場ではなく、サタンとの、あらゆる被造者をその背後に在ってあやつる悪霊との闘争において、その終末の特定の時まで、自らを「隠しつつ支配」し給う歴史です。

教会に課せられたそのサタンの策略への対抗という救拯史参与は、実に意外にも、「神の知恵」を媒介とすることが宣言されています。

エペソ書の、
「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。
この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである」(エペソ3:10-11)
という言葉において明示されています。

教会の対悪霊的戦闘は、教会の首であるキリストの戦闘であり、その行手にあるのは、ただ「キリストの凱旋」あるのみですが(第二コリント2:14)ーーそれが、「教会を通して」神の多種多様な知恵が知られるという一点にかかっているという信仰的洞察を宣言しているのです。

救拯史の構想ーーその時代区分に示された歴史の支配者である神の「知恵」を顧みます。

◉救拯史の隠れた支配者の「知恵」は、隠れて働く歴史支配者と、その救拯史に参与させられた人間との「出会い」、ひいては、その知恵の「切点」に焦点をおくべきです。

◉創造物語によると、人間の堕罪の起こりは、人間が「神のように善悪を知る者となること」でした(創世記3:4、先に引用)。

つまり、知恵こそ、人間が、自らを神の位置にまで「自己神格化」する武器なのです。

知恵によって人は一応、自己以外のもの、自己以外の世界、自己以外のすべてを「支配する」ことができるからです。

だが、自己神格化は、狂人にもたせた刃物に似て、そこに働く知恵は切れ味がよければよいほど自他を亡ぼす殺人剣になります。

◉それにもかかわらず、神は、その人間の自己神格化の最愛の、そして最高の武器である知恵を「切点」として、自らを啓示し給うのです。

創世記が語る「善悪を知る知恵」とは、人間的には、価値判断の最高位を占めます。

だが、人間の評価は、神の評価ではありません。

人間の知恵の判断は、神の前には知恵であるより、反って「無知」です。

「神はこの世の知恵を、愚かにされた」(第一コリント1:20)。

端的にいえば、神の評価は、「ヤコブを愛し、エサウを憎む」という絶対自由な評価であり、したがって、その評価は、人間にとっては徹頭徹尾、「処理不可能」なものとして対峙するのです。

◉ロシアの哲学者で、マルキストからロシア革命で、反共産主義者になったニコライ・ベルジャーエフ(1874年-1948年)が指摘するように、人間の善悪の規準は、「神の国」では通用しないのです。

【参考】ニコライ・ベルジャーエフの代表作から。
ニコライ・ベルジャーエフは、その代表作を『現代における人間の運命』と題して、1934年にパリで出版していますが、そこでは既に、現代にも通じる原理的な歴史批判が、次のように記されています。

「現代は荒廃と無秩序の時代である。
われわれは、いままでにないほど完全に、組織、計画、強制、統一、あるいは国家絶対主義の奴隷となった。
このような悪の根源は、すべてみな、キリスト教の危機に、宗教的意識の危機に、また霊性の衰退に見出される。
では、われわれを危機から救ってくれるものはなにか。
それは、まだ歴史によって汚されていない、あるあたらしい『霊』でなければならない」(116頁)

「人間的判断」と「人間的評価」による特定の行為を絶対化するとき、「毒麦と思って良い麦まで抜きかねない」致命的結果を招くことが警告されるのです。

【参考】マタイによる福音書 13:24-30、「毒麦の譬」
「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、
「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。
人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
僕たちがきて、家の主人に言った、
『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。
どうして毒麦がはえてきたのですか』。
主人は言った、
『それは敵のしわざだ』。
すると僕たちが言った
『では行って、それを抜き集めましょうか』。
彼は言った、
『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。
収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

⚫︎「神の思いと人の思い」⚫︎「神の道と人の道」⚫︎「神の評価と人の評価」との隔絶を心に銘記することが、反って、「神を畏れる」こととしての「知恵の根源」であることを聖書が宣告するのです(箴言全巻)。

「知恵の切点的位置づけ」はどういうことになるでしょうか。

それに対して、光を投げるのは、ヨブ記の結論です。

苦難という歴史的、具体的な境位は、「義人何故苦しむか」という問いとしてヨブのうちに結晶しました。

この問いを問うのは主人公ヨブです。

彼が主人公として問う時、彼は、この問いに「彼が望むように答える神」を予想し、期待しています。

だが、「創造主」に出会われた時、ヨブは、自己が主人公として問う者であったその位置を逆転させられて、彼がその問いとともに、「問い返された」のです。

その問いには、実は、「義人は絶対に苦しむはずはない」という自己の知恵に基づく前提が含まれていたのです。

創造主との出会いは、まさに「主客逆転」の出来事ですから、問う主人公であったヨブは、その「人間的中心的前提」を生み出した人間的知恵を、「無知」としてさばかれ、そこに、問う者が逆に「問われる者」とされ、その主客逆転によって、その眼を高次元に向けられたとき、「無知の自己暴露」による「無知の知」を知らされたという出来事です。

このことから、教会の対悪霊的戦闘として「神の多種多様な知恵」が媒介とされるということは、教会の肢である個人が、救拯史に働く神の多種多様な知恵を、イスラエルとともに、また教会とともに、その歴史を踏みつつ、彼の既穫得の知恵と知識の狭さと、浅さと、低さとを、神のそれによって自己暴露される出来事として規定することが出来ます。

個人の救拯史参与ということは、神の評価における「唯一の然りであるキリスト」のからだに結びつけられることであり、それはしたがって、あくまでも、「自己の手によって」という人間の意識を思い上がったものとして排除することになります。

何故なら、キリストが神の前の「唯一の然り」である時、人間の決断も行為も、一切はただ「賜物に先行された課題」という位置しかないからです。

使徒行伝のステパノの救拯史解説が、「自己の手によって」民族救出を試みようとしたモーセを退けて、「神の手によって」遣わされた者としてのみ、その救拯史に参与させられたものと観ていることで明らかです(使徒行伝7章)。

個人の救拯史参与は「作意的」ではならないのです。

それはイエスが「最後の審判」について、人が⚫︎「何時」⚫︎「何処で」⚫︎「誰に」、したかを覚えないような、「非作為な行為」を、神の祝福に与かるものとして評価していることで明らかです。

【参考】「最後の審判の基準」、マタイによる福音書 25:31-46
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、
『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
そのとき、彼は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

作意的でない行為、決断とは、非打算的な、自然に溢れ出る性格のものです。

マタイによる福音書は、「最後の審判」で祝福の対象とされる「無意識的の行為」を指摘した記事の直後に、その点を更に強調するために、イエスの頭に高価な香油を注いだひとりの女の溢れ出るような行為と、それに対して批判を下すことしか出来なかった弟子たちのかたくなさとの対照で描いています。

ルカによる福音書においては、この香油をイエスに注いだ女の記事は、償うことのできない罪を赦された「感謝から溢れ出た行為」としてイエスにより、無上の評価を得たものとして描かれています。

【参考】マタイによる福音書 26:1-13、ルカによる福音書 7:36-50
「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。
そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、 策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。
しかし彼らは言った、
「祭の間はいけない。
民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。
さて、イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、
「なんのためにこんなむだ使をするのか。
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、
「なぜ、女を困らせるのか。
わたしによい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、
「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。
それは罪の女なのだから」。
そこでイエスは彼にむかって言われた、
「シモン、あなたに言うことがある」。
彼は「先生、おっしゃってください」と言った。
イエスが言われた、
「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。
このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
シモンが答えて言った、
「多くゆるしてもらったほうだと思います」。
イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、
「この女を見ないか。
わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。
ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。
少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、
「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
しかし、イエスは女にむかって言われた、
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

「神に選ばれた王ダビデ」が、「神に棄てられた王サウル」との比較で描かれているサムエル記でも、最も印象的なのは、「神の箱」が敵の手からイスラエル人の手に還された時、「力をきわめて、主の箱の前で踊った」ダビデ王の記事です(サムエル記下6:14以下)。

ダビデの純粋な歓喜から溢れた踊りという行為を理解できず、嘲笑をあびせた妻ミカル(サウルの娘)に対し答えたダビデの言葉は、
「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。
わたしはまた主の前に踊るであろう。
わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。
そしてあなたの目には卑しめられるであろう。
しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」
という独自な格調を示すものでした。

救拯史参与ということは、あくまでも「所与(ガーベ)に先行された課題(アウフガーベ)」、「賜物に先行された課題」であり、したがって、その結論として、救拯史に参与させられる決断とは、「神の究極的勝利を、未穫得である今ここにおいて、既穫得のものであるかの如く先取する決断」であるといえます。

作ることや有つこととしての「作意的行為」、ひいては、「律法的行為」との対照において、また「神の勝利の先取」の強調において、あるいは「罪を赦された感謝」から溢れ出る行為という意味で、ユルゲン・モルトマン(ドイツの神学者、1926年4月8日ー)のいわゆる「遊び」に近い「よろこび」でしょう。

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