34-5「どうしたら正しく理解することができるか?」25

ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(5)正典解釈

②「内在される神」

救拯史における「隠れた」歴史支配者の徹底的「内在的」在り方に移ります。

徹底的に超越した神は、人間の最高の枠である「倫理的評価」さえ、無限に超えて支配するのですが、その神が、「子なる神」としてイエス・キリストの十字架において、歴史をその根底から最も内在的に「負い尽くしている」という意味での、歴史の支配者である、というのが、聖書の救拯史の証言です。

イエスの先駆者ヨハネはイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。

【参考】ヨハネによる福音書 1:29-36
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。
わたしよりも先におられたからである』
とわたしが言ったのは、この人のことである。
わたしはこのかたを知らなかった。
しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
ヨハネはまたあかしをして言った、
「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
わたしはこの人を知らなかった。
しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、
『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。」

ヘブル書はこのことを、
「ここで、初めに、『あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まず、好まれもしなかった』とあり、次に『見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました』とある。
すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
この御旨に基づきただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」
と解説しています(ヘブル10:8-10)。

◉このヘブル書の言葉は、選民史中の最大の矛盾の一つとされた、レビ記の祭儀肯定思想と、エレミヤの預言を通して語られた、
「あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともない」(エレミヤ書7:22)
という祭儀否定思想との矛盾を「止揚」するものです。

また聖書の最後の帰結的位置におかれた黙示録は、創世記の予告した、サタンとの闘争の場である神劇(黙示録3:15)としての宇宙史の結論として、「力と富と知恵と勢いと、ほまれと、栄光と讃美とを受けるにふさわしい」のは、世の創はじめから屠られた小羊であり、サタンに既に勝った者、かつ終末的にその勝を決定する者として再臨する「アルパであり、オメガである主キリスト」を証しています(黙示録13:7-8、17:14、22:12-15等)。

【参考】ヨハネの黙示録 13:5-8、ヨハネの黙示録 17:11-14、黙示録22:12-15
「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。
そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。
そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。」

「昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。
あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。
彼らは心をひとつにしている。
そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。
また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。

「見よ、わたしはすぐに来る。
報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終りである。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。」

またこのことは、現在の教会の対サタンとの課題と闘争の連関で、
「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現される神の永遠の目的にそうものである」(エペソ3:10-11)
と言われています。

ーーーー

信仰雑話>34-5「どうしたら正しく理解することができるか?」25、次は34-6「どうしたら正しく理解することができるか?」26
ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう