第三章 第八節 ハガイ書、ゼカリヤ書・マラキ書概説11

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マラキ書1

⁋マラキ書の肩書の預言者の名とせられている「マラキ」とは、「我が使者」と云う意味であって、 それが果して人名であったか否かと云う事が疑われている。而して本書中に用いられている「我が使者」という語が(三章一節)、この肩書に用いられたものであろうという想定が、今日では一般に認容せられている。
⁋本書の特徴は次の二つの点に現われている。即ち一方には・その文学的形式が対論的又は問答態となっていることであり、他方には・その一般的雰囲気が懐疑的又は絶望的になっている事である。 先ずこの第一の点からみると、この対論的形式は、⁋本書の時代には既に後世の師匠と弟子との問答の端緒がみられ始めていた、と云う事を示すものである。即ちこの時代には預言の形式に、一つの重大な変化が起りつつあった事がわかる。第二の点に就てみると、本書に現われている民衆全体の懐疑的にして・絕望的気分は、虜囚前預言者に現われている民衆の気分と、著しい対照をなしている。例えばアモスに於ても或はイザヤに於て、そこに現われているのは不信仰的であると共に、 積極的であり・楽観的であり・極めて自己信頼的である。この意味に於てこの両者の間には大なる差異が見出される。
⁋本書のこの二つの特徴は、当然本書の記された時代と環境とを知るべき手懸りとなる。即ち第一 の対論的文体からみると、それは預言者がアモス又はイザヤの如く、「上から」強烈な勢を以て民衆に語った時代のそれではなく、又「横から」諄々(じゅんじゅん)と説き聞かせるものとなった時代の形式であるという事を示すものである。同時にこの懐疑的絕望的気分は、何回となく繰り返えしてメシヤ来臨と 祖国回復との希望を裏切られて、民衆がもはや之を俟ちのぞむ気力さえなくなった時代のものである事を示している。此の條件に該当する時代は、ほぼハガイ及びゼカリヤの激励によって第二神殿が完成せられて後、之と関連して預言せられたメシヤ来臨と祖国回復との俟望が、又もや完く裏切られ、一般民衆が極度に懐疑的となった時代である。 エズラ・ネヘミヤがエルサレムにきて、「モーセの律法書」を公布し、宗教改革を行ったのは、恰度このマラキ書の現わしている懐疑的気分が、生み出した頽敗時代であったとおもわれる。此の事は本書中に・神殿建築が既に終り且つその緒儀式 が回復された事が示されていること(一章十節、三章一節等)・「總督」又は「方伯」というペルシヤ官權の名称がハガイ・ネヘミヤ両書と同様に用いられている事(一章八節等)・懐疑思想が顕著である事(一章二節、六節、七節、二章十七節)、雑婚が行われている事(二章十一節)・祭司等の規律が溢れている事(二章一ー九節)、神殿えの獻物に対して民衆が無頓着となる事(一章七節其他)等によって明かにせられる。
⁋本書の目的は、勿論信仰的懷疑を払拭して、もう一度民衆をして父祖の信仰に立たしめようとする点にあるが、特に「イスラエルに対する神エホバの愛」を、証明せんとする点に於てみられる。 従って本書の内容は、この主題によって、三つの部分に分たれる。即ちその一が・主題の一般的断定(一章二ー五節)、 その二が・主題に関する対論的問答(一章六節―三章十二節)・その三が・主題の終極的証明(三章十三節四章十六節)である。

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