第三章 第七節 ナホム書・ハバクク書・ゼパニア書概説10

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三書の関係

第二のハバクク書の主題たる「義者の信仰的俟望」の意義は、上述の心理的過程が理解せられる時初めて、その価值を発揮する。周囲の世界の何處にも神の正義の勝利を示すものがない。反対にそこには不義者の横暴と不信仰者の跋扈とが見られる。何人と雖(いえど)も神の正義を信ずる者は、ハバククと共に天に向って詰問的に訴えざるを得ない。その時必ずしも之に充分に答え得る客観的出来事が起るとは云えない。その時かかる信仰者の採るべき態度を示したのが、「義しき者は信仰によりて活くべし」と云う言であった(二章四節)。而して此の言の示す信仰こそ、イスラエルに於ける宗教的信仰の核心をなせるのであった (創世記十五章六節、イザヤ書七章九節後半)。即ち世界の現実が何うあろうと、「正義の神は必ずその正義をして勝ちとげしめ給ふ」という信仰に於てのみ、その中に於て信仰者は「活きることができる」と云うのである。此の信仰なき處に神を信ずる者の活送る途はない。ハバクク書の預言の主題は茲にその意義をもっている。新約聖書に於て此の言が、その福音的信仰の中心を表現するものとして繰り返えして用いられていることが、此の言の重要性を示している(ロマ書一章十七節、ガラテヤ書三章十一節、ヘブル書十章三十八節)。然し此のハバクク書の主題も、 それのみではその「俟望の信仰」の内容が、充全に明示せられたとは云えない。此の信仰者の世界 の現賞に対する洞察が深められゝば深められる程、而(しか)して神の正義の勝利えの俟望が強められれば 強められる程、彼の信仰の「地平」は広く且つ遠くなってくる。而してハバククの此の俟望的表現を以てしては、それに盛り切れないようになってくる。
第三のゼパニヤ書の主題たる「エホバの日の来臨」は、此の地平の「極限」を、時代末的に或は歴史末的に示したのである。ニネベの陥落も・バビロンの滅亡も、此のエホバの日に対する個々の過渡的象徴であり、之に至る里程石(りていいし)であるに過ぎない。之こそ全世界・全人類・否・全宇宙の総決算の日である。「その日が確かにくる」!  然し此の日は啻だに「終末的」であるだけではない。 それはまた「現在的」でなければならない。「内に省みよ」と云われ、「自ら省みるべし」と云われ ているのはそれである(二章一―二節)。俟望の指針の先端は「未来」を示しているが、その指針の 元は「現在」と云う軸にとりつけられている。軸が廻らないで先端が廻るということはあり得ない 俟望する者のみ緊張することができ、緊張する者のみが俟望することが出来る。
以上がナホム・ハバクク・ゼパニヤ三書の主題の連であり、此の三書が年代的順序を変更せられてまで、現形に配列せられた理由であるように思われる。

第七節 ナホム書・ハバクク書・ゼパニア書概説 終わり

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