第三章 第七節 ナホム書・ハバクク書・ゼパニア書概説9

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三書の関係

⁋ナホム・ハバクク・ゼパニヤ三書の思想的連関は、「神の正義の勝利」に対する・イスラエル預言者の確信を示す、極めて重要なものである。此れら三書の年代的順序が現在の配列順序と異っている事は、「十二預言者」編纂の時既に知られていたことであろうとおもわれる。隨って此の編纂の時に当って、既に此の三書の主題たる「ニネベの陥落」「義者の信仰的俟望」「ヱホバの日の来臨」と 云う三つのことが、此の連関に於て考えられていたことが想定される。然らば此ら三書の現在の配列に於て、その主題に関し、如何なることが観られたものであろうか。
⁋第一のナホム書の主題たる「ニネベの陥落」が、当時のユダ王国の人々に対して――周囲の弱小諸民族に対すると同様に――大驚異であり、一大歓喜であったことは容易に想像できる。啻だに姉妹国たりし、北王国イスラエルを亡ぼしたのみならず(紀元前七二二年)、 ユダ王国自身をも数回に亘って悩ましてきた此の西部アジアの猛獅(もうし)が(二章十一節)、今や全世界の眼前に於て、致命傷をうけて倒れんとし、断末魔の呻き声をしているのである。之に対して、ユダ王国の人々が、何れほどの歓喜を感じ・感謝を捧げたかは、想像に余りがある。実に彼らは「神の正義の勝利」が、「歴史に於て」実証せられたことを感じたのである。是がナホム書の預言の主題であり、それが示す実感である。此の事は被圧迫者たりしユダ王国の人々にとって、極めて自然のことであり、また尤(もっと)もなことであった。然し此の眼前に起った歴史的出来事に、此の信仰的歓喜を感ずるということには一つの危険があった。歴史的出来事というものは、云う迄もなく、そう信仰的解釈に都合よく生起するものではない。「日に非なり」とは、人間が歴史に於て常に経驗するところである。若し眼前に 生起する歴史的出来事に於て――「於てのみ」とは云わない迄も――過度の歓喜を味わい慣れると、 その生起する出来事が必ずしも神の正義の勝利を立証するものでない場合、そこには悲観的心理と懐疑的態度とが生れ易い。

「ヤコブよなんぢ何故にわが途はエホバにかくれたりといふや、イスラエルよ汝なにゆゑにわが訟はわが神の前をすぎされりとかたるや」

とは(イザヤ書四十章二十七節)、恰度かくの如き時に発生した懐疑的態度であった。

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