第三章 第七節 ナホム書・ハバクク書・ゼパニア書概説6

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ゼパニヤ書

⁋ゼパニヤ書の肩書によれば、預言者ゼパニヤは「アモンの子ユダの王ヨシアの世に」(紀元前六四◯年ー六○八年)預言したものと言われている。従ってその時代からみると、申命記宗教改革が行われた時代の前後程遠からざる時であり、また預言者エレミヤが預言したのと同時代である。本書中此の時代を尚お少しく限定するものと想われる句が、少くとも三つほど現われている。その一は・ 「かの溢れのこれるバアル」と云う句であり、その二は・「天の衆軍を拜む者」と云う句である(一章四ー五節)。此の二句ともヨシア王治世第十八年に行われた(紀元前六二一年) 申命記宗教改革によるエルサレムの浄化運動を、ひそかに逃れた異教礼拝を示すものと思われる(列王紀下二十三章殊に五節)。 その三は・「心の中にエホバは備をなさず、災をなさずと云ふ者」と云う言である(一章十二節)。 此の時代のヨシア王は、エホバの聖旨に従い、大宗教改革を行った人であったから、申命記の因果応報的神学の明示するところに依れば(二十八章)、彼の一生は祝福せられたものであるべきであったし、また列王紀にもその一部に此の事が明言せられている (下二十二章二十節)。然るに事実は之に反し、 ヨシア王はユフラテ地域を攻撃する為北上し来った埃及王パロ・ネコの軍を迎撃した時、メギドに於て遂に戦死し、死骸となってエルサレムに帰ったのであった(同二十三章二十九節以下)。是が為に一時申命記の因果応報的神学が一般的に棄てられるようになり、エルサレムの民衆の間には懐疑思想が発生するようになった。上述の言は、此の時代の此の懐疑思想を語っているものとおもわれる。従ってゼパニヤ書の年代はヨシヤ王の死を境としているものと想定せられる。
⁋ゼパニヤは同じく本書の肩書によると、その四代前の祖が、「ヒゼキヤ」とせられている。此のヒゼキヤは 北王国イスラエルの滅亡を観たユダの王ヒゼキヤ王であったと云われるが(列王紀下十八章一節以下)、然し之には多くの異説がある。
⁋本書の預言の主題は、「エホバの日」である。是は預言者アモス以来(五章十八節)イザヤを経て (二章十二節等)審判の預言の伝承となった「さばきの日」を指している。ゼパニヤが此の「日」を、 その預言の主題としたことに対する時代的理由には、二つの事があるらしい。その一は・前述のように、申命記宗教改革がその当初の期待に反して、その効果を現わすことが極めて少なかった為であったであろう。即ち如何に嚴重な改革をしてみた處が、結局それは部分的のものであり・一時的 なものであり・皮相的なものであるにしか過ぎない。随ってそこには全世界を一掃する「エホバの 日」が当然来るべきであり、また俟望せらるべき筈であると云う、信仰的心理があったであろう。 是がその理由の一つである。その二は・恰度此の時代に(紀元前六三〇年ー六二四年) 西部アジア一帯殊にスリヤ・パレスチナより埃及にかけて地中海沿岸地帯を攻略し、此の地方の都市といわず農村と云わず、その凡てを荒廃せしめた蠻民スクテヤ族の来襲の事実であった。此の恐怖すべき突如として起った事実は、確かにゼパニヤの「エホバの日」の預言に対する時代的刺戟となったものとおもわれる。此の蛮族来襲が、如何にイスラエルの預言者に強い刺戟を与えたかは、同時代の預言者エレミヤの之に対する言及によっても明かである(六章二十二節以下・其他)。
⁋本書の内容は四部に分たれ、その一は「エホバの日の告知」・その二は「エホバの日の警告」・その三は「エホバの日の審判」・その四は「エホバの日の祝福」である。

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