第三章 第四節 ダニエル書概説 11

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⁋聖書中その解釈が最も困難で、それが為にある特殊の教理的主張の為に濫用せられた書物が二つある。それは新約聖書に於ける默示録と旧約聖書に於けるダニエル書とである。それは此ら両書とも非常に多くの象徴的用語を以て書かれていることと、その象徴がその書かれし時は明かであったが、今日では全く不明になったものが多いところから起ったことである。それが為に、特殊の主張をもつ者が、それゞゝ此の象徴的用語を自己の主張に適合するように解釈することとなったためである。隨つて此ら二書を、学ぶ我々は、之に対して最深の注意を揃わなければならない。而して如何なる書物を読み、如何なる註釈を読む時も、その言う所を無条件に受け容れるという事は絶対に避けなければならない。ダニエル書に就て従来二種の極端な解釈があった。一は極端な過去的解釈であり、二は極端な未来的解釈である。極端な過去的解釈とは、本書を批評的歷史的に研究して、本書編纂の過程を逆に遡り、遂に史料的断片となし終る解釈である。極端な未来的解釈とは、本書を「基督再臨説」の教理書とし、その解釈的重点を此の一点にのみおく解釈である。云う迄もなく、 本書の如き書物を理解する為には、一方に歴史的研究が必要であると共に、他方に終末的研究が必要であることは論を待たない。歴史的研究をしなければ、その書の成立した過程がわからないし、その著者のその書を録した元来の意図が知られない。而してその著者が何ういう材料を用いたか、またそんな材料を何故用いたかがわからない。此らの諸点を知る為には何うしても歴史的研究がなければならない。また本書の如き書物は苦難の裡にいる人々に来らんとする救拯を語ることによって、 希望をもたせ、現在の苦難に耐えさせようとするのであるから、それが示す終末的論点を明かにせんとするのは当然である。然しそれは何れも「現在」に立つて観られた値値であって、その「現在」 が忘れられる時、その過去と未来との値値はその基点を失ってしまう。聖書中の各書が、教会と吾吾とに対して「聖書」であるのは、それが「現在的意義」をもつが為である。過去も未来も此の現在があつてこそその意義があるので、此の「現在」の忘れられている處に、聖書はその「聖書」たる性格を失ってしまうのである。
⁋然らばダニエル書の「現在的意義」とは何であり、何處に求めらるべきであろうか。それは何處迄も「一書として」のダニエル書が、「いま・ここ」で私をうつしてくるところに見出される。燃ゆる爐に投げ入れられたヒブルの三青年は、今此の書を拝読している私であり、獅子の穴に投げ入れられているダニエルは、今此れを拝読している私であり、四つの獣は今本書を拝読している私に示されたものであり、エレミヤ書を読んで知らせられた「七十年」の預言は、今之を拝読している私に教えられたものである。「いま・ここ」で試み聴かない限り聖書は「聖書」とはならないし、ダニエル書はダニエル書とはならないのである。

-第四節 ダニエル書概説 終わり、

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