第三章 第二節 エレミヤ書概説  11

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第四 彼と望 2

⁋此の選民の目的の成就は、然し現在と何らかの連関をもたなければならない。 エレミヤは現在のダビデ王朝は何うしても亡びなければならないが、然し其の跡にメシヤが現われて、民を指導するものと観た。

「エホバいひたまひけるは・観よわがダビデに一つの義しき枝を起す日来らん、彼主となりて世を治め栄え公道と公義を世に行ふべし、其の日ユダは救をえ、イスラエルは安に居らん、 其の名はエホバ我らの義と稱えらるべし、この故にエホバいひ給ふ・観よイスラエルの民をエジプトの地より導き出せしエホバは活くと人衆いはずして、イスラエルの家の裔を北の地と共の諸て逐やりし地より導き出せしエホバは活くといふ日来らん、彼らは自己の地に居るべし」

と云う言がそれであるが(二十三章五ー八節、二十三章十四ー十八節)、此の言の中に二つの重要なことが現われている。「枝」とは、大木が切り倒された後、その地中の根株から新しく出る枝の意味で、此處ではダビデ王朝と云う大樹がバビロンによって切り倒され、その地上には見えない根株から出る指導者即ちメシヤを指した語である。また「エホバ我らの義」とは、最後の王ゼデキヤの名をもぢったものである。 即ち「ゼデキヤ」とは「エホバの義」の意義であるが、此の光栄ある名を担うたユダの最後の王が、その名によって現わされた選民の指導者としてその使命を裏切ったので、此の新しい「枝」たるメシヤが、更めて此の名を担うというのである。而して此の名は「エホバの義」ではなく、「エホバ我らの義」即ちエホバ御自身の恩寵によってその義に與からしめられるので、我らの義は我らの義ではなく、エホバ御自身がその恩寵によって我らの義となり給うと云うのである。 エレミヤは次に起るエゼキエルの先騙者として、その墜落した同胞の為に神の前に祈る時、その執成の根拠が何ら無い處から、「汝の名」の故にと祈っているが(十四章七、二十一節等)、是こそ実に此の「エホバ我らの義」の具体的現われであった。此の「枝」に於て、エレミヤは「ダビデ」そのものを観、ダビデなる象徴的名称を用いた。然る此の選民の望の成就は、前述のバビロンの「時」の終る終末的出来事の彼岸であった。

「哀しいかな、その日は大いにして之に擬(なずら)ふべき日なし、此はヤコブの患難の時なり、然れど彼はこれより救ひ出されん、万軍のエホバいふ、其の日我なんぢの項(くび)よりその軛(くびき)をくだきはなし、汝の繩目をとかん、異邦人はまた彼をつかはざるべし、彼らは共の神エホバ と我彼らの為に立てんところの其王ダビデにつかふべし」

とは (三十章七ー九節)、彼の此の望の具体的表現である。

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