第三章 第二節 エレミヤ書概説  9

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第三 彼と敵

⁋エレミヤに対してはその国全体が、宗教的意味に於ては敵であったと云うことが出来る。自然の人間は、彼を超えて語る人間に対して、常に憎悪を感ずる。エレミヤの同胞に対する預言者としての愛は、彼らにとっては、国に対し・民に対する裏切りであり、売国的感情の現われとしか受取れなかった。エレミヤの親バビロン的預言と、そのバビロン軍に降るべき勘告とは、常に民衆を怒らしたが、遂にエルサレム落城直前に於て、民衆は彼の此の預言を聽くに堪えず、王に至って彼を殺すことを求めた。ゼデキヤ王は之を如何ともすること能はず、エレミヤを民衆とその指導者との手に任せた。

「彼ら即ちエレミヤを取りて獄の庭にあるハンメレクの子マルキヤの阱(あな)に投げ入る。即ち索(なわ)をしてエレミヤを縋り下せしが、その阱は水なくして汚泥のみなりければ、エレミヤは汚泥のなかに沈めり」

とは(三十八章六節)、此の時民衆が彼に対してとった処置であった。此の事は又彼の同郷の人々に於ても現はれた。普通の場合には古イスラエルに於ては、一人の個人が敵に立ち向う時は、彼の部族の人々とその近親者とが之を助けるのが常であった。然るにエレミヤの場合に於ては、同郷同族の人々も彼を保護することをしなかった。彼等は常にエレミヤに害を加えんとしていたようである。

「是をもてエホバ、アナトテの人々につきてかくいひたまふ・彼等汝の生命を取らんと求めて言ふ、汝エホバの名をもて預言する勿れ、恐らくは汝我らの手に死なん」

と言われてゐる 如くであつた(十一章二十一節)。而して此の同郷人の彼に対する反感は次の如く具体的に現わされた。 恰度カルデヤ軍(バビロン軍)がエルサレムを包囲した時、埃及軍来襲の噂があった為、その囲みを解いたことがあったが、エレミヤはその時を利用して、その故郷アナトテの国に帰った。その時の門を守る者が、「汝はカルデヤ人に降るなり」と、エレミヤの釈明をも聽かず、邑の牧伯の許にひ営行いたので、彼らはエレミヤを獄に投じたのであった(二十七章十一節以下)。又エレミヤに対して特に敵となった者は当時の宗教家であった。之にはエレミヤの側に於てもその原因をもっていた。アモス以来真の預言者が時代の宗教家を批判し且つ攻撃するのは恒であったが、此事はエレミヤに於ても例外でなかった。

「預言者より祭司にいたるまで皆詭詐(いつわり)をなす者なればなり、かれら浅く我民の女の傷を醫し、平康(やす)からざる時に平康し平康しといへり」

と云い(六章十三ー十四節)、

「 エホバ我にいひたまひけるは・預言者等は我名をもて詭(いつわり)を預言せり、われ之を遣はさず、之に命ぜずまた之にいはず、彼らはいつはりの默示と卜筮(うらない)と虚しきことと己の心の詐(いつわり)を汝らに預言せり。此の故にかの吾が遺はさざるに我名をもて預言して剣と饑饉はこの地に来らじといへる預言者等につきてエホバかく云ふ、この預言者等は剣と饑饉に滅ぼさるべし」

と云い(十四章十四、十五節)、

「預言者と祭司は偕に邪悪なり、われ我が家に於てすら彼等の悪を見たりと、エホバいひたまふ故にかれらの途は暗(くらき)に在(あ)る滑かなる途の如くならん、彼等推(おさ)されて其の途に仆(たお)るべし、我災をその上にのぞましめん、是彼らが刑罰(つみせ)らるる年なりとエホバいひたまふ」

と云い(二十三章十一ー十二 節)、更にまた

「万軍のエホバかくいひたまる・汝等に預言する預言者の言を聽く勿れ、彼等はなんぢらを欺き、エホバの口より出でざるおのが心の默示を語るなり、常に彼らは我をかろんずる者にむかひて、汝等平安をえんとエホバいひたまへりといひ、又己が心の剛愎(かたくな)なるに循ひて行んところのすべての者に向ひて、災汝らに来らじといへり」

と云った彼に対して(二十三章十六ー十七節)、一般宗教家の反感が向けられたのは、蓋(けだ)し当然過ぎるほど当然なことであった。而して此の反感は、ギベヲンのアズルの子なる預言者ハナニヤとエレミヤとの論争に於て、その頂点に達した。ハナニヤはユダ王国の勝利とその平安とを確信していた。従ってバビロンに降れと云うエレミヤを「偽預言者なり」と考えた。此の論争の光景こそ実にエレミヤの生涯を縮圖としたもので、当時の一般預言者の態度を如実に示したものであった (二十八章全体)。
⁋此の全民族・全郷黨・全家族の反感と反対と迫害とは、エレミヤに特殊の精神的経驗を味はしめることとなった。即ち彼は之に由て「我唯だ一人」と云う意識をもたせられるようになった。殊に此の事は、同じ神に仕える宗教家の迫害に由て、彼の内に一層強められた。彼は実に「神の前に立たせられるただ一人なる彼自身」を発見させられた。血族連帯感を以てその社会的基礎としていたイスラエルに於ては、普通の生活に於ては、「個人」としての自己を発見し得る人はなかった。然しエレミヤに於ては前述の稀有なる経驗が、その強烈なる神信仰に於て、此の「個人」としての自覚を味わしめる力となった。

「その時彼らは父が酸き葡萄を食ひしによって兒子の齒うくと再びいはざるべし、人はおのおの自己の悪によりて死なん、凡そ酸き葡萄をくらふ人はその齒うく」

とは (三十一章二十九ー三十節)、彼の「個人主義」に対する驚くべき宣言であった。彼をイスラエルに於ける最初の個人主義者と云うのは極めて正しいと云うべきである。

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