第三章 第一節 イザヤ書概説 2

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⁋イザヤは宗教的意義に於てのみならず、政治的意義に於て、

「鼻より息のいでいりする人に倚(たよ)ることをやめよ」

と、エホバにのみ倚(よ)りたのむべきこと力説した。

「なんぢ謹みて静かなれ……若しなんぢら信ぜずばかならず立つことを得じ」

とは (七章四ー九節)、スリヤ・エフライム同盟軍来襲に怯えたアハズ王に語られた言であった。彼は実に、選民の王国ユダはエホバに依て独立的政治を行うべきであり、埃及には勿論アッスリヤにも依存すべきではないと云う政治的確信に立っていた。 而してその中央に神殿をもつ国都エルサレムは、如何なる敵が来襲しようとも、難攻不落なりと確信していた(十章甘四ー二十七節、十四章三十二節、二十八章十六節、三十七章三十三―三十五節)。彼の此の選民の独立と云う思想は、その文化の独立にまで及び、神が彼に

「一つの大いなる牌をとりそのうへに平常の文字にて……と録せ」

と宣うたと録している(八章一節)。此の「平常の文字」とは、バビロン・ アッスリヤの楔形文字に対して謂われた――異認はあるが――セム・アルファベットの事であって、 此の文字の使用に於てもアッスリヤの勢力から脱却すべきことを主張したものであろう。彼が斯(か)くまで選民政治の独立を力説したのは、彼に当時の世界の政治的状勢が明かであった為だと思われるが、当時のユダの政治家らでさえ、埃及に依存することを賢しと考えたくらいであったのに (三十章一節、二節)、 それが彼に対して如何に可能であったろうかということは説明せられていない。

⁋イザヤの神は、特に「イスラエルの聖者」と呼ばれ、従来のイスラエル神観をより超越的にまたより倫理的に観た神であつた(一章四節、五章十九節、二十四節等)。而して彼は

「されど万軍のエホバは公平によりてあがめられ、聖なる神は正義によりて聖とせられ給ふべし」

と云い(五章十六節) 超越性と倫理性とを神に於て見あげたのであつた。而して彼の神はまた世界諸民族の神であると共にその歴史の主であり、世界の強国として誇る者も、彼の手にて用いられる道具に過ぎない

「咄(やよ)アッスリヤ人なんぢはわが怒の杖なり、その手の笞はわがいきどぼりなり」

とは(十章五節)、彼の観たエホバの世界総統の聖手の中に在る強国アッスリヤの存在理由であった。此の神の聖前に於ては、世界の如何なる国民と雖(いえど)も、その使用に対して抗議すべきではなく、また不満を訴うべきではなかった。

「斧はこれをもちいて伐るものにむかひて己れみづから誇ることをせんや、鋸(のこぎり)はこれを動かす者にむかひて已みづから高ぶることをせんや、此はあだかも笞(しもと・むち)がおのれを舉ぐるものを動かし、杖みづから木にあらざるものを繋げんとするにひとし」

とは実に此の神の権威に関する、彼の一大宣言であった(十章十五節)。

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