第二章 第四節伝道の書概説3

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第二 主題の証明

⁋此の部分に於ては(一章十二節—八章十七節)、序説に於ける主題の叙述が、著者の人生経験と宇宙及び社会の観察に依て証明せられている。此の主題の証明は第一に(a)「智識」の問題から始められている。

「我心を儘し智恵をもちいて天が下に行はるる諸の事を尋ねかつ調べたり、此の苦しきわざは神が他の人にさづけて之に身を労せしめたまふ者なり。我日の下になすところの諸のわざを見たり。鳴呼皆空にして風を捕ふるがごとし」

とは(一章十三、十四節) 実に、著者の智識観であつた。 信仰か? 懐疑か? 凡そ知識を求むる者の窮極は此の何れかに別れる。此の著者は此の後者に追いつめられ、その極虚無思想に立たせられるようになった。次に著者は (b)「快楽」に於て人生を解決しようとした (二章一ー三節)。

「我心に智恵を懐(いだ)きて居りつつ酒をもて肉身を肥さんと試みたり」

と云うのが、彼の人生に対する態度であつた。然し此の二つは彼に於ては全く融合することは 出来なかつた。そこに彼が見出したことは、快楽また空なりと云うことであつた。彼は進んで(c)大いなる「事業」に依り、彼の生を充たさんとした(二章四ー十一節)。 彼は

「我は大いなる事業をなせり」

と云い、邸宅を建て、葡萄園と果樹園とを植え、大庭園を造り、多くの僕婢をおき、金銀を積み、諸国の財宝をつみ、多くの妻妾を得たと語つている。

「凡そわが目の好む者は我これを禁ぜず、 凡そわが心の悦ぶ者は我これを禁ぜざりき」

とは彼がその生涯になし得たことであつた。然し此らより彼の得たところのものは、前と同様

「我わが手にて為したる諸の事業およびわが労して事を為したる労苦を顧みるに、皆空にして風を捕ふるが如くなりき。 日の下には益となる者あらざるなり」

と云うことであった。彼は次に(d)人生に於ける「智恵と狂妄と愚痴」との価値に眼を向けた(二章十二―十七節)。然るに智者も愚者も、智恵を持つと持たないとの別はあるが、その経験するところは全く同じである。

「其のみな遇ふところの事は同一なり」

とはその観察の結果であった。茲に於て彼は四度び失望を味わい、果ては

「是に於て我世にながらふることを厭へり」

と帰結せざるを得なかった。かくして彼は彼自身の経験せしところから、次の如く結論した(二章十八ー二十六節)。

「我身をめぐらし日の下にわが労して為したる諸の動作のために望を失へり」。

(e)著者の観察は次に宇宙のそれに向けられた(三章一ー十五節)。

「天が下の万の事には期あり、万の事務には時あり」

と書き出した彼は、宇宙の一切の事に於て「時」が定められて居り、

「働く者はその労して為すところよ り何の益を得んや」

と云わざるを得ざる程に、人間は宿命の裡(うち)に閉じ込められている。然るにこの宿命の裡に安住し得れば、そこに一つの満足を見出すことが出来るが、それは人間に許されていない。人間の裡には之と全く正反対の一つのものがある。

「神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦(さず)けたまへり」

と云うことがそれである。宿命の籠の中に閉じ込められた人間は、その中から永遠という蒼空を望見して、その隔りに悩まざるを得ないのである。宇宙全般に向けられた著者の眼は次に(f)人間の社会に向けられた(三章十六節ー四章十六節)。茲でも彼の発見した事は、彼を満足せしめるものではなかつた。彼は

「我また日の下を見るに審判を行なふ所に邪曲なる事あり、公義を行ふところに邪曲なる事あり」

と云い(三章十六節)、更に

「茲に我身をめぐらして日の下に行はるる諸ろの虐遇を観たり、嗚呼虐げらるる者の涙ながる、之を慰むる者あらざるなり」

と記し(四章一節)、その観察が何所迄も悲観的であることを示している。斯くして彼は繰り返へして絶望を味わされ、我はなお生ける生者よりも既に死にたる死者をもて幸なりとす」という結論に追ひやられた (四章二節)。(g)宗教が次に彼の観察の対象となつた(五章一ー七節)。「虚無」思想に所を得させた 彼は宗教に対して、「触はらぬ神に祟りなし」と云う態度を探っている。

「汝神の前にありては軽々しく口を開くなかれ、心を攝(おさ)めて妄(みだり)に言をいだすなかれ、そは神は天にいまし汝は地にをればなり、然れば汝の言詞(ことば)を少からしめよ」

とは神に対する彼の態度であり(五章二節)、其所では宗教はもはや、人生に於ける実際の力ではなくなつている。茲で著者の眼はもう一度(h)社会に於ける弱者の圧迫に向けられている (五章八節—六章十二節)。前に弱者の圧迫を述べて、

「虐ぐる者の手には權力あり」

と (四章二節) その儘諦観(ていかん)に陥ったかと思はれた著者は、此処ではその観察を更に進めて、

「汝国の中に貧しき者をしへたぐる事および公道(おおやけ)と公義(ただしき)を枉(ま)ぐることあるを見るも、その事あるを怪しむなかれ、其はその位高き人よりも高き者ありてその人を伺(うかが)へばなり、又其等よりも高き者あるなり」

と云い(五章八節)、此の圧迫が循環的であることを述べ、結局位高き者と雖(いえど)も真の滿足を得るものではなく、位低き者に優ることはない。隨って圧迫者も被圧迫者も共に、真の満足を得ることなく、世の中を去つて行くのである(五章十五節、六章二節)。斯くして著者は、彼の個人的社会的及び宇宙的観察から(i)次の如く全体的の結論をしている(七章ー八章)。その一は・宇宙のことは余りに深くして、人間には之を究めることを許されていないと云うことである(七章十七節)。その二は・凡ての事に於て徹底するということを避け、凡ゆる事をその中道に於て行うと云う ことである(七章十六節)。 その三は・適当なる肉体的滿足の裡にその生を終ることが、人間に許されたただ一つの途であるということである(八章十五節)。

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舊約聖書概説>第四節伝道の書概説3、終わり、次は第四節伝道の書概説4

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