第二章 第四節 伝道の書概説1

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⁋伝道之書が旧約聖書中に含まれていると云うことは、旧約聖書の性格に対して一つの大きいことを教えている。即ち旧約聖書は「聖書」ではあるが、それが含んでいる書物は狭い意義に於ける「聖い書物」のみではなく、「聖からざる書物」をも含んでいると云うことである。然し此の「聖からざる書物」は、その聖からざる儘にその中に含まれているのではない。此らの書物は旧約聖書に含ませられる時、その性格を「聖別」せられたのである。此の事は此の伝道之書と雅歌及びエステル書とに於て明瞭に見られる。雅歌は後に述べるように全く一連の恋愛を歌った歌で、その中には「神」とも「エホバ」とも記されて居ないのみならず、宗教的と名づくべき何ものをも含んでいない。またエステル書は前述したやうに「神」とも「エホバ」とも記していないのみならず、その内容の一切は一つのユダヤ人の復讐物語に過ぎない。然しそれにも拘らず、此ら二書は、旧約聖書中に含ませられたと云うことに依て、「聖書中の一書」として理解せられ、解釈せらるべき書物となったのである。伝道之書も之と同様で、その本来の性格が何であったかは別として、聖書中の一書として解釈せらるべき書物とせられたのである。伝道之書の理解の鍵は

「わが子よ是等より訓誠をうけよ、多く書を作ればはてしなし、多く学べば体疲る。事の全体のきするところを聽くべし、云はく・神を畏れその誠命を守れ、是は諸ての人の本分なり。神は一切の行為ならびに一切の隠れたる事を善悪ともに審きたまふなり」

と云う、その最終の前に見出される(十二章十二節以下)。此の言は二つの事を教えている。その一は・此の世界には「はてしなく、体の疲れる」追求の対象と途とがある事を示す事である。イスラエルの青年は斯くの如き対象に眼を注いだり、斯くの如き追求の途に身を任ねたりしてはならない。それではそんな対象とそんな途とは何んなるのかと云えば、此の伝道之書の如きものであると云う点である。その二は・イスラエルの青年は「凡ての人の本分」(人の全体) であり、「事の全体の帰するところ」に、その全存在と全努力とを集中しなければならない。と云うのは一切の研究と思索とを棄てよと云うのではない。此の研究と思索とは正しき「基礎」に於てなされなければならない。

「エホバを畏るることは智恵の根本なり、聖き者を知るは聡明なり」(箴言九章十節)

と云う言こそ、此の基礎を示す「知恵」の言である。伝道之書は聖からざる書物であったが、此の二つの見地から聖別せられて、旧約聖書中に含ませられたものである。

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舊約聖書概説>第四節「伝道の書概説」1、終わり、次は第四節「伝道の書概説」2

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