第二章 第二節 詩篇概説11

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結 尾

⁋詩篇には、その全体に対する緒言として、特に第一篇と第二篇とが置かれている。恐らく最初に詩篇が編纂せられた時、此の二篇は茲に置かれたものと思われるが、その後数回の編纂に依って內容にも順序にも前述の如く変更が加えられたのに、此の二つの詩篇の位置には変更が加えられなかった事を見れば、此の二つの詩篇の緒言的重要性が、それに依って知られると云うべきである。此の二つの詩篇は全く共通の点と、全く相違する点とをもつている。その共通の点とは、両者とも「平和」を主題としていることで、その相違する点とは、その平和の起る領域で、第一篇のそれは「内なる世界」の平和であり、第二篇のそれは「外なる世界」の平和である。

「かゝる人はエホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ」

とは、第一篇の「内なる世界」の平和の状態である。其処には 一と度びは神に対する背反と、人に対して優越ならんとする想いと、我を何処迄も我として立て通さんとする慾望とがあり、その結果としての不断の精神的混乱があった。然し今やそれは全く「エホバの法」によって導かれ、その混乱を超えて、此の法による平和が齎(もた)らされ、此の法を中心とする「日も夜もこれをおもう」という瞑想の世界が現出した。是こそ実にエホバの法による內なる世界の全き平和である。

「天に坐するもの笑ひたまはん、主かれらを嘲けりたまふべし」

とは、第二篇の示す「外なる世界の平和である。」然し此の平和は普通の平和と云う用語を以て現わすべく徐りに動的なる平和である。それは実に地上の混乱と騒擾とにも拘わらず、天に坐し給うなる者の決断に於ける平和である。

「如何なればもろもろの国人はさわぎたち、諸民はむなしきことを謀や。 地のもろもろの王はたちかまへ、群伯はともに謀り、エホバとその受膏者(あぶらそそがれたもの)とにさからひていふ」

と は、此の地上の混乱と騒擾(そうじょう)とを示す言である。而して彼らは

「かれらその枷(かせ)をこぼちその縄をすてん」

と、公然全宇宙の主に反抗の意志を表明している。此の時中空に静かな「笑」の声が聞える。 是こそ実に彼らの論動を嘲けり給う全能者の笑である。此の笑いの示す聖なる決断は、直ちにその 実現者を示す言となっている。

「しかれども我わが王をわがきよきシオンの山にたてたり」。

是こそ実に詩篇の中心をなすメシヤである。即ち此の外なる世界の平和は此のメシヤの平和であり、彼が宇宙の主の「詔命」を実現することによって具現せられる平和である。詩篇の百五十篇よりなる全体は、此の二つの詩篇によって代表せられる。即ちその千態万状の内容も、実は混乱と騒擾を超えて、信仰によって味われる「内なる世界の平和」であり、信仰によって仰がれる「外なる世界の平和」である。然も両者相俟って、真の「神の統御めたまふ世界」が成り立つのである。

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舊約聖書概説>第二節 詩篇概説11、終わり、次は第三節 箴言概説1

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