第一章 第七節 「士師記概說」7

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本書の教訓

⁋本書は極めて暗示に富む書物である。本書に挙げられたる士師は、それぞれ特徴をもって居るが、 是によって神に召されたる者の、その人物の大と小とに不拘、学ぶべき事が示されて居る。先づ第一に・第二の士師なるエホデの特徴である(三草十五節以下)。彼は「左手利」(ひだりきき)であっ た。此当時は此の事は普通人の間には極めて特殊的に見られ、一般的には別物扱いにされる原因となつて居た。然るに彼は圧迫者エグロン王に面会した時、剣を普通人と反対に「右の股のあたりに帯びて居た為、王も侍臣も彼が剣を帯びて居る事に気がつかなかったので、彼は此の油断を利用して、此の圧迫者を殺す事が出たのであった。神に召される時、人は普通の場合衆人から特殊扱いされる自己の性格が、神の聖用に供せられる時、大いなる祝福の源となる事を発見するものである。 第二に・ギデオンの三百人の精兵の選まれた場合の暗示である。最初三万二千人集まり、それを一 万人とし、更に之から精兵を選む為に、ギデオンは之を水際に連れ行き、水を飲ませた。ところが其處に二種の飲み方が見られた。一は顔を水際につけて、口を以て直接に水を飲んだ者で、他は水際に膝を折り、手で水を掬(すく)い、眼を河の彼岸にある敵陣に注ぎつつ、之を飲んだ者であつた。云う迄もなく選まれたのは後者であった。勿論聖戦の兵卒と雖(いえ)ども衣食住は必要である。然しその求め方に二種類ある。一は、敵を忘れ之に没頭するもので、他は「敵前感」を鋭く保持し乍ら、之を求める者である。今日の如き時代に求められるは此の種の人々である(七章一―七節)。第三に・第八の士師エフタ神えの誓願を果した事の教訓である。彼は圧迫者アンモン族との戦に出で往く時、神に誓願を立て、若し此の戦に勝利を與え給うならば、自分が凱旋する時、我が家の戸口に自分を最初に迎える者を、燔祭として献げんと云った。然るに彼を迎えた者は、その愛する獨子(ひとりご)なる一女であった。然し彼は遂に之を誓願の如くした。後世の詩人は、

「われ燔祭をもてなんぢの家にゆかん、 迫りくるしみたるときにわが口唇のいないで、わが口ののべし誓をなんぢに償はん」

と歌って居る (詩篇六十六篇十三節)。人は罪の苦痛に耐えかねて、神に呼ばわる時、彼の全存在を「燔祭」として聖前に献げる事を告白する。然し何時かその献身は弛緩する。本書のエフタの物語は之に対する深い反省を促して居る(十一章三十節以下)。 第四に・士師サムソンの信仰的破綻に就てである。彼がデリラを愛した時彼女が彼に対する一大誘惑である事を彼は知って居た。然るに彼は此の誘惑との関係を断ち切る事を得ず、遂にはその力の秘密をまで之に語り、最後にその頭髪を剃り落されてしまった。此處に一つの暗示に富む言が錄されて居る。

「彼睡眠をさまして云ひけるは・我つねのごとく出でて身を振はさんと、彼はエホバの己れを離れ給ひしを覚らざりき」(十六章二十節)。

此處に誘惑の怖しさがある。第五に・サムソンの最後の悔改に就てである。前掲の最後の祈の後、彼が柱と共に倒れて、全觀衆と共に死んだ時、

「かくサムソンが死ぬる時に殺せしものは、生ける時に殺せし者よりも多かりき」

と錄されて居る (十六章三十節)。神は生涯を誘惑の為に引きづられ、打負かされて過した者に対しても、なおその最後の悔改の祈を待ち給う。而して彼が此の祈りを捧ぐる時、此の 神的異変が起るのである。我等の信ずる神は、最後の悔改の祈を受容れ給う神である。

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舊約聖書概説>第七節 「士師記概說」 7、終わり、次は第八節「サム工儿前書概說」1

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