第一章 第三節 「レビ記 概說」7

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第四 結 尾

⁋レビ記は徹頭徹尾罪人の聖なる神に対する礼拝を規定した書である。上来述べ来ったように、そこには罪人が聖なる神を礼拝し得んが為の供え物に就て、仲介せられんが為の祭司に就て、不断の礼拝をその生活とすべきその選民の生活の分離に就て記されて居た。而して之を一貫して居るものは「神の干(おか)すべからざる聖」と、「人の癒すべからざる罪」とである。此の罪が如何に深く人心の奥に喰い入て居るかを示す二つの出来事が、特に顕著に記されて居る。一は祭司の罪悪であり(十章1〜二十節)他は民衆の謗瀆(ぼうとく)である(二十四章十〜二十三節)。前者はアロンの子にして祭司なるナダブとアビウの「異火(ことび)」を献げた事に於て現われた。此は祭司としての特殊の罪悪であって、民衆には犯す可能性のない罪であった。本書に於て特に記されている複雑なる聖別と任職との式を経たる祭司にして、尚お此の罪に陥ったものであった。後者は埃及人とイスラエル人との混血児で、「エホバの名を瀆けがして詛(のろ)ふ事を」なしたのであった。民族全体を埃及の奴隷状態から贖い出し、乳と蜜の流るる約束の地カナンに導き入れ給いし神の名を詛うと云う事に於て、人間が神に対する背反的存在である事を暴露した罪であった。此の二種の罪によって、本書は実に人間の罪性の深さを示して居る。上述の 諸節期に於て、種々の供え物が献げられるが、しかし一年を通して民族全体の罪と、祭司自身の罪との為に所謂大「贖罪日」が設けられねばならなかった。此の日に行われる贖罪によって選民に関る一切の罪が贖われるべきであった。此の規定は本書第十六章に記され、本書の頂点であると共に、選民生活の中心であった。先ず七月十日には喇叭の音によって、全国に比の日なる事が告け知らされた(二十三章二十四節以下)。祭司は「子牛の牡を罪祭の為に取り、牡羊を燔祭の為に取り」、自らは前述の壮厳なる祭司の服装を脱ぎ、「聖き麻の衣と、麻の下着と、麻の帯と、麻の頭帽」とを身に着け、 特に此の日の為に身仕度をする。牡山羊二匹を罪祭の為に、牡羊一匹を幡祭の為にと、また自己と家族の為に罪祭を献ける。此の日の中心的出来事は、二匹の山羊が取られ、之を籤(くじ)によって一つを 「エホバの為に」、他の一つを「アザゼルの為に」定める。而して此の二匹の山羊のそれぞれの所置(しよち)が取られる。先ず第一の山羊は民全体の為の罪祭として献げられ、

「斯くしてまた民のためなるその罪祭の山羊を宰(ほふ)りその血を障蔽(しょうへい)の幕の内に携へいり、かの牡牛の血をもて為せしごとくその血を もて為し、これを贖罪所の上と贖罪所の前に注ぎ、イスラエルの子孫の汚穢(おわい)とその諸の悖(みだ)れる罪とに緣(ゆかり)て聖き所のために贖罪を為べし、即ち彼等の汚穢の中間にある集会の幕屋のために斯(かく)なすべきなり」(同十五、十六節)

と記されたるごとく行われる。是によって民のエホバに関する一年間の一切の罪が贖われ、是等が一年中の最も重要な供え物である。此の民の為の罪祭が献げられて後、第二の「アザゼルの為」の山羊が曳き出される。

「然る後アロンその生る山羊の頭に両手を按(お)き、イスラエルの子孫の諸の悪事とその諸の悖(みだ)れる罪をことごとくその上に承認(いいあら)はして、これを山羊の頭に載せ、選びおける人の手をもてこれを野に遣(さしむけ)るべし、その山羊彼等の諸悪を人なき地に任ゆくべきなり、即ちその山羊を野に遣(さしむけ)るべし」

と規定せられたように行われる(二十一、二十二節)。是は一切の罪がそれから来るものと考えられた「アザゼル」の所に、民族全体の罪を此の山羊に負わせて追い遣る事により、その罪の所置(しよち)を完全にするものである。即ち「エホバのため」の山羊によって、 エホバの前に赦(ゆるし)があたえられ、「アザゼルのため」の山羊で、その罪が排除せられる。此所(このところ)に選民イス ラエルの一切の罪に関する完全なる所理(しょり)がされるのである。新約書は、此のエホバのための山羊の罪祭と、是を献ぐる祭司とをキリストの型とし(ヘブル書九章十一〜十五節)、更にアザゼルの為の山羊を、「羊」としてではあるがキリストに於て見て居る(ヨハネ傳一章二十九節)。実に斯くの如く、レビ記の一切は新約のキリストに由る「贖罪」によって成就せられたのである。

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舊約聖書概説>第三節 「レビ記概說」7、終わり、次は第四節 「民數紀概說」1

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