第一章 第三節 「レビ記 概說」1

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⁋レビ記は選民の礼拝に関する規定を記した書である。出埃及記に於て、神は「彼等わがために聖所を作るべし、我かれらの中に住まん」と命じ給うた(二十五章八節)。此の命令によって、モーセは 「幕屋」を建設し、是に奉仕すべき「祭司」の制度を規定した。レビ記は此の後を受けて、此の「聖所」に於ける「礼拝」の規定を記し、是が選民イスラエルの常に在るべき姿である事を教えて居る。聖き神が、人間の間に住まい給うと云う時、そこには二つの事が必然になる。その一つは・神と人との交渉が「象徴」に由ると云うことで、その二は・聖き者と聖からざるものとの「分離」が行われなければならないと云う事である。絶対にして聖なる神が人間の間に住み給うと云う時、人間の言語及びその他一切は、此の神との関係を表現すべき具とはなり得ない。云う迄もなく人間の言語は、有限の人間生活から産れたもので、絶対の神に就て云い表わすべき無限性を有(も)たない。というのは絶対者を語るには絶対的言語でなければならず、無限者は無限の言語によってのみ語り得られるからである。比所に第一の「象徴」が必然なりと云われる理由がある。また聖なる神が人間の間に住まい給う時、当然聖ならざるものは罰せられ拒(しりぞ)けられ、聖きものと分たれなければならない。即ち選民そのものが「聖民」であるべきであるから、その生活の一切が聖であるべきで、之に適(ふさ)わしからざるものは分たれなければならない。此所(このところ)に「分離」の必然なる理由がある。レビ記における「礼拝」は、此の「象徴・分離」を原則として規定せられて居る。礼拝と云う時、吾々(われゝ)は吾の生活のうちの或る時間のみの事のように考え易いが、比所ではそんな部分的の礼拝ではなく、選民の生活全部が、その選び主なるエホバに対する礼拝であるべきものとして考えられて居る。比の礼拝は、しかし、人間の当然の権利として行われるものでもなく、また人間の当然の資格の上に立って行われるものでもなかった。一言に云えば、本書に於ける選民の礼拝は「罪」にある人間が、 選びの神の恩寵の故に、礼拝する事を許されてする礼拝である。是が為に本書に於ては深刻なる罪の意識が全巻を貫いて居る。此の罪の深刻さは、人間が意識して犯した罪のみならず、無意識の間に犯した罪と云う観念によって示されて居る。

「人もし罪を犯しエホバの誡命の為(な)すべからざる者の一つを為(な)すことあらば、假令(たとい)これを知ざるも尚罪あり、その罪を任(おう)べきなり」

とは、是を表現した言である(五章十七節、参考四章十三、二十二、二十七節等)。本書の読者は此の人間の罪性の深さに注意すべきで、本書の一切は此の罪にある人間が聖なる神を礼拝する事を許されて居る、という事に対する畏敬と矛盾と・注意と・戦りつとから成って居る。以上を本書は「何に由て礼拝すべきか」、「誰に由て礼拝すべきか」及び「如何に活きて礼拝するか」の三項目に分かって述べて居る。

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舊約聖書概説>第三節 「レビ記概說」1、終わり、次は第三節 「レビ記概說」2

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