第一章 第一節 「創世記概說」11

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第三「改造の書」・創世記

⁋創世記は「改造の書」である。それは「元始の書」であり、又「選びの書」であると共に、「改造の書」である。「元始の書」であり、「選びの書」であるということは、本書が「改造の書」であることの為の条件と云うべき性格である。

「我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の 地とは過ぎ去り、海もまたなきなり。・・・・また大なる聲(こえ)の御座より出づるを聞けり。曰く・視よ、神の幕屋、人と共にあり、神、人と共に住み、人、神の民となり、神みづから人と共に在して、かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」

とは、聖書の最後の書なる黙示録に述べられて居る言である (二十一章一~四節)。此の言は聖書の第二次目標が「天地」の改造であり、新天新地の出現である事を示して居る。即ち聖書は全体を通して、神の天地改造の聖業を示す書物である。此の天地改造が必要となった「元始」を記し、その改造の手段としての「選び」を記したのが創世記である。故に創世記は、此の改造の雄大なる端緒を記した書であると云われるのである。此の意味に於て創世記は、「改造」を目的とする書物として、その構造が把握されなければならない。之に依て本書の構造を見ると次のように分けられる。

(1)「天地創造」(一章一節~二章二十五節)

(a)「天地を主とした創造」 一章~二章三節
(b)「人間を主とする創造」二章四~二十五節

⁋天地を主とする創造は、全く神の聖意に適えるもので、

「神その造りたる諸のものを視たまひけるに甚だ善かりき」

と記されて居る(一章三十一節)。人間を主とした創造は人をエデンの園に置き、その地理的環境と・経済的環境と・社会的環境とが、如何に満足なものであったかを記し、その置かれた位置が完備せるものであった事が述べられている。此處(このところ)で一、二の特に注意せらるべき事がある。その一は・原人の楽園に於ける責務に就てである。

「エホバ神其人をとりて彼をエデンの園に置き之を理(おさ)め之を守らしめ給へり」

とあるのがそれである(二章十五節)。此の言の中の「をさめ」とは労働を意味する語であり、「まもる」とは秩序保全に対する注意を意味する言である。之に依って見ると、原人は楽園に置かれて居たとは云え「無為」に過すべきではなかったと云う事が解る。聖書に於て労働が神聖に見られて居るという事は、その起源が此處(このところ)にあるのであり、その意味が之にあるのである。同時に聖書が、衣食を労働の報酬と見ないのも、此處(このところ)に其の理由が見られる。即ち楽園に於ては、生きる為の資料は神の賜としてそこに備えられて居るので、原人の労働はその代償ではなかったのである。注意せらるべき事の第二は・原人に対する制約である。

「エホバ神其人に命じて言ひたまひけるは園の各種の樹の果は汝意のままに食ふ事を得。然ど善悪を知るの樹はその果を食ふべからず。汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり」

と云われている如く(同十六、十七節)、其(その)處には凡て「心のままに」成し得られるという事に対して、「べからず」と云う制約があった。規律なきところに真の自由がないと云う聖書の教はその起源を比處に持って居る。規律なき自由は真の自由でなく、それは実に放肆(ほうし・勝手気まま)である、というのが聖書の根本的立場である。注意せらるべき事のその三は・男女両性合はせて完き形となると云う事である。

「エホバ神言ひたまひけるは、人獨りなるは善らず。我彼に適ふ助者を彼の為に作らんと」

云うのが(同十八節)、原人に対する神の聖旨であって、その為にエバがアダムの肋骨から造られた。聖書が人間の性的事実そのものを悪と見ないというのは此處(このところ)にその起源を持って居る。

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舊約聖書概説>第一節 「創世記概說」11、終わり、次は第一節 「創世記概說」12

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