第一章 第一節 「創世記概說」3

ホーム渡辺・岡村著書舊約聖書概説>第一章>第一節 創世記概說

第四に・本書に於て「救拯の始」が記されて居る(三章二十一節)。神は堕落し罪人となった人間を楽園から追放なし給うたけれども、之を裸体のままに置き給わなかった。

「アダムとその妻の為に皮衣を作りて彼等に衣せ給へり」

とは、神の救拯の恩寵を象徴せし言である(三章二一節)。若し聖書の中で之を貫いて居る暗黒なる線が罪悪線だとすれば、之を暴露しつつ貫いて居る光明の線が此の救拯線である。此の言が示す如く、神は醜き人間の罪の裸体を覆しめんがため「仔羊」なるキリストの皮衣を備え給うた。

「汝らは神に頼りてキリスト・イエスに在り、彼は神に立てられて汝らの知恵と義と聖と救贖(贖い)とに為り給へり」

とは(コリント前書一章三十節)、此の皮衣の新約的意味である。憎みて愛し、罰して救うという事、即ち神の審判と救拯という二本の線の交錯こそ、吾人が聖書の内に常に見させられる事態である。

第五に・本書に於て「文化の始」が記されて居る(四章十七節)。

楽園を追放されたアダムとその後裔は、楽園の外に、神なき文化を建設した。

「カイン・エホバの前を離れて出で、エデンの東なるノドの地に住めり、カインその妻を知る。彼はらみエノクを生めり。カイン邑(むら)を建て、その邑(むら)の名をその子の名に循ひてエノクと名づけたり」(四章十六、十七節)。

邑(むら)が建てられて、共處に「琴と笛とをとる者」が生まれ、

「銅と鐵のもろもろの刃物を鍛ふる者」

等が生れた(同二十節二十二節)。

此が 聖書に於ける文化の最初であり、その文化は前述の如く、「エホバの前を離れて」建設せられた文化であった。此の文化を生み出した人類は、その楽園外の地より徐々に東方に移動し、所謂「バベルの塔」を建てた(十一章一~十四節)。バベルの塔とは、神に背反し神から離れた人類が、自己の手で造り上げた文化を以て、天に到らんとした反逆の象徴である。此の塔は神より罰せられ、その結果遂に人類は全地に散らされ、その共通の言語が乱された。そうして此の乱された言語の結果、人類は相互理解を失い、「我」のみあって「汝」を見失うに至った。此の乱された言語は、五旬節に当たって、聖霊を受けた信仰者が、凡ゆる民族の国語を語り得るに及んで、初めて神の前に於ける共通性を有ち得ることとなったのである(新約使徒行伝二章一~十三節)。此の神なき文化こそ、神の救拯的恩寵がその中に現われる「環境」である。キリスト教は此の環境の中に成育し・持続し・現存して居る。

キリストは

「我が願ふは彼等を世より取り給はんことならず、悪より免からせ給はんことなり」

と祈り給うた(ヨハネ博十七章十五節)。

即ち「彼等」とはキリスト者であり又その教会である。此の教会はどうしても「世」即ち神なき文化の只中に置かれなければならない。然もその置かれ方は、之に対して没交渉的な、傍観的な置かれ方であってはならない。教育は此の文化のただ中に在って、地の塩であるべきであり、又「世の光」であるべきであり、更に「山の上にある町」であるべきであると教えられて居る(新約書マタイ五章十三節以下)。是が神なき文化と信仰者との関係であり、信仰者が此の地上に置かれる限り、その中に在るべき「神なき文化」である。創世記は此の文化の起源を上述の如く記して居るのである。

ーーーー

舊約聖書概説>第一節 「創世記概說」3、終わり、次は第一節 「創世記概說」4

ホーム渡辺・岡村著書舊約聖書概説>第一章>第一節 創世記概說

 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう