第一章 旧約聖書の歴史書1

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⁋現行日本語聖書の旧約聖書においては、最初に歴史書が置かれ、そこに「選民イスラエルの過去」がみられている。すなわち創世記以下エステル書までの十七巻である。これらの歴史書は「在りしまま」のイスラエル民族の歴史を記したものではなく、イスラエルの神信仰の立場から、再解釋された民族の歴史が記されている。換言すればその内容は「民族史」ではなく、「救拯史」なのである。 この意味をつぎに説明しよう。

⁋およそ民族でも・個人でも、その生活において、宗教的信仰が確立されて来ると、その「過去」に対する理解が、信仰の与えられる以前のそれとは異なって来る。例えば甲なる個人がキリスト教信仰を与えられ、それが確立されて来ると、彼の過去は全く別のものとなって来る。信仰の与えられる 前には、自己の生涯が不幸であり、不運であり・灰色であり・何一つ仕合せと感じられることがなかったと考えられていたのが、信仰を与えられ・その光でこれを見る時、そのすべてが、その一つ一つ が、自己を信仰に導くの機縁であったことが理解できて来る。

「神を愛する者、即ち御旨により召されたる者のためには、すべての事相働きて益となるを我らは知る」

というパウロの言は(新約書 ロマ書八章八節)このことを言ったものである。即ち一言で云えば、宗教信仰は、個人の過去を全く造りかえるものである。未来を造りかえるものは、文芸又は哲学等各種あるかも知れない。しかし過去を改造し得るものは、宗教信仰あるのみである。

⁋このことは、旧約聖書中創世記に見出される「ヨセフ物語」において(三七章、三九ー五十章)、最も明かに示されて居る。イスラエルの始祖ヤコブ・イスラエルの子ヨセフは、父の老年時の子であったためその特別の愛をうけたので、他の十人の兄弟から常に憎まれかつ嫉まれていた。その結果、 彼は兄弟等の姦計によって、遂に奴隷商人に売り付され、その手によってエジプトに連れ行かれ、エジプトの高官の家に売られ、共所でも彼の誠実が裏切られ、遂に牢獄に入れられるという悲運を味わせられた。しかし、不思議な神の摂理は、彼をエジプトの大臣となしたが、その時彼は彼を売って、暖かい父 母の膝下から引き離した兄弟等に会見することとなった。

その会見に当たって、彼は

「我は汝等の弟ヨセフ、汝等がエジプトに売りたる者なり、されど汝等我を比処に売りしを以て憂ふるなかれ、身を恨むるなかれ、神生命を救はしめんとて、我を汝等の前に遣はし給へるなり」

といっている(四十五章四五節)。即ち彼の一切の悲運は、自然的立場からみれば、すべてその兄弟等の悪意と憎悪と嫉妬との結果であったが、しかし一度「信仰」の光によってこれをみ直せば、全くイスラエルの全家を救わん為の摂理によるものなることが明かになったのである。是こそ実に宗教信仰による「過去の改造」である。

⁋このことは、個人の場合のみでなく、民族の場合においてもまた真である。イスラエル民族も他の諸民族のとおり、いわゆる自然的基礎における「民族の歴史」をもって来た。しかしそれは今日まで研究せられて来た。しかしその「民族の歴史」全体は、イスラエルが「選民」とせられた「信仰」の光によって照される時、全く別の「歴史」として再現せられて来る。例えばイスラエル国家の滅亡という歴史的事実も、自然的立場からみれば、それは武力の相違による強国の勝利であり、弱国の敗北でしかなかつた。しかし信仰的立場からみれば、それは彼等を選び給いし神の罰であった。「遂にエホバその僕なるすべての預言者をもていひ給ひしとおりにイスラエルをその前より除き給へり。イスラエルは即ちその国よりアッスリヤに移され今日にいたる」とは、王国分裂後の北王国の滅亡について言われた信仰の言であり(旧約書列王紀下十七章二三節)、

「エルサレムとユダに斯かる事のありしは エホバの震怒によるものにして、エホバ遂にその人々を自己の前より払い捨て給へり」

とは、その南王国の滅亡についていわれた信仰の言である(同二四章二七節)。

続く

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